ソニアの過去
目的と手段が逆転するのは、よくある話だ。
全てのユースタシアの民を救うために、宮廷医師団は設立された。
しかし、その『全て』には、優先順位がある。
まあ、金払いのいい商人や貴族を重視するのは、全てを国に頼り切らないという観点から見れば、おかしなことではない。
医療技術の研究・発展を考えた時、資金はいくらあってもいい。
それこそ、大貴族や、国家規模の財力が必要となる。
ただ、それが若手に無力感を与えているとなれば、問題でもある。
とはいえ、医師団は歴とした国家直属の独立機関だ。
ヴァンデルヴァーツ家は、諜報機関としては正式な国家機関ではなく、実は宮廷に明確な役職さえ持っていない。
国王陛下よりの命令なしに手を出せる筋ではない。
ただ、ソニアのような人材には、とりあえず粉をかけた。
若手とはいえ、医師団に入団を許された秀才揃い。
宮廷医師団を辞してもなお……いや、それだけの職場を辞したからこそ、技術を存分に生かせる環境や、貧しい患者と真剣に向き合える場が欲しい……と、贅沢を言う者も多かった。
そういう贅沢は、大好物だ。
欲しい物をはっきり言ってくれて、そこに嘘がないと、取引が楽でいい。
医師団を辞した者達は、ほとんどそっくりそのまま、我が家の傘下に収まった。
ヴァンデルヴァーツ印の薬を作っている薬学部門や、ヴァンデルガント内の医師が足りない地域への派遣医師などが、主な就職先だ。
色々と余裕が出て、ほくほく顔になったことを覚えている。
これだけ筋のいい人材が国家の中枢からごっそり流出するのはまずい気がしつつも、常に欲してやまないような人材を採り放題で、得をした立場としては、もう少し静観してもいいかなーと思ったり。
そんな中、『彼』が頭角を現した。
「それでも、医師団は変わりました。僕が変えた、というのはおこがましいですが……その象徴ではあります」
彼ほどの若者。それもどこの生まれとも知れない者が医師団のトップにいるのは、権力争いの結果だ。
そこで担ぎ上げられたのが、この権力欲のかなり薄い好青年であることを思うと、現場は本当に権力争いに疲れていたのだろう。
ルイ医師長は若手からの支持が中心ではあるが、彼は割と上を立てるタイプなので、『重鎮様』からの支持もある。
人材の流出は落ち着き、めでたしめでたし……なんて簡単には締めくくれない。彼は今も戦っているから。
ただ、少なくともヴァンデルヴァーツ家のような『部外者』が出しゃばる案件ではなくなった。そういうことだ。
ソニアが、力なく微笑んだ。
「……そうですか。噂には、聞いてましたけど。あなたみたいな人がトップだったら……私、まだ、医師団にいたかも、ですね」
彼女があのコートに袖を通すのに、どれほどの努力をしたことか。
ユースタシアでは、庶民にも学びの門戸は開かれている。
だが、それは『ふるい』だ。無限に教育を与える資金はなく、分かりやすく優秀な人材を見つけるために、ふるいの網の目は……粗い。
最低限の読み書き計算より先に進めるのは、ほんの一握り。
宮廷医師団へと続く、学びの園への道は、あまりにも細く、険しい。
そうして選り抜かれた俊英さえ――いや、だからこそ悩み、道に迷う。
彼女があのコートを脱ぐのに、どれほどの覚悟が必要だったことか。
薬草へ興味があった。
人を救いたいと思った。
――それを両立できると、思った。
ソニアは私に、医師団への志望動機を……かつて自分を駆り立てた熱情を、光のない、死んだような暗い目で語った。
今の彼女しか知らぬ者からすれば、別人としか思えないだろう。
今は無造作に伸ばしている茶色の髪は、当時は丁寧にくしけずられていた。
今は伸び伸びとした髪型だが、当時は後ろで丁寧にまとめて紐で結んでいて、野放図に暴れてはいなかった。
今は薬草園における研究員を示す紫の前開きローブだが、当時は医師団所属を示す、黒いラインが入った白いコートに丸帽子。
当時と今では、何もかも違う。
当時の私は、当主自ら、優秀な人材の確保のために面談などしていたのだが。
……悪い奴がいれば、良かった。
法外な診療費を要求したり、逆に、診療費を無料にしてやるから――とか。
実は、そういう奴もいたので、そこらは医師長も知らないことだが、そっと手を下したりしている。
少なくとも、医師長選挙の際、ルイへの反対票は『一票』減った。
もちろん『お代』は頂いた。彼からではなく、一票さんから。
宮廷医師団という権力に守られた立場に甘えたらしく、脇が甘いのに、とても旨みのある獲物だった。
ルイ医師長が嫌う不正や裏取引そのものだが、巡り巡って患者のためになります、多分。
――そういう悪い奴ばかりなら、良かった。
実際はそうではない。
そうではないから、彼女は苦しんだのだ。
その苦しみが、宮廷医師団を志したからだとは、まして、人を救おうとしたからだとは、思いたくなかったろうに。
問題の解決手段を考える時、早い段階で『暗殺』という手段がさらりと出てくる人命軽視団体、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の長としては、眩しかった。
そんな彼女も、とりあえず様子見で配属されたヴァンデルガントの薬草園が肌に合ったらしく、今では目に生気がある。
なんだか、以前より暴走気味のような気もするが。
私の知る医師団時代の姿は、心を病んでいた頃だと、分かっているつもりだが。
前歴を冗談として笑い飛ばせるようになったのは――あの死んだような暗い目を思えば、喜ばしいことだ。
辞めたくて辞めた前職ではないだろうに。
「ソニアさん。――宮廷医師団に未練は、ありますか」
「え?」
ソニアが眼鏡の奥の目を見開く。
ルイ医師長が、真剣な目で彼女を見据えた。
「もしもそれを望むならば、僕は、あなたが再びこのコートに袖を通す手伝いができます。――この飾り羽根に誓って」
彼は、彼女にとって実に魅力的な選択肢を差し出した。