ぞっとする目覚め
とてもぬくぬくして、ふわふわして、いい気持ちだった。
「……お姉様」
夏とはいえ、ここは、朝晩に冷え込むユースタシア北部。
ぬくもりが、とても心地よかった。
「あの、お姉様」
間近から声をかけられて、ふわふわした気分が、消えて行く。
私は、朝のまどろみから、ゆっくりと意識が覚醒していくのが好きなのだ。
いくら妹の声とはいえ、自然に目覚めたかっ――
ぞっとした。
一瞬で、意識が覚醒する。
背筋を撫で上げた恐怖が、じわーっ……と手足の先まで広がって、思わず震えそうになるのを、精一杯押しとどめた。
……今、どんな体勢だ?
声はどこから聞こえた? ――近すぎる。
そして、ぬくぬくしている。ぬくもりを感じている。――腕の中、に。
今――どんな体勢だ?
「お姉様。多分、そろそろシエルさんが声をかけに来る……と思うんですけど」
思い切って、ぱっと目を開ける。
寝起きにレティシアの顔が目の前にあるのは刺激が強すぎて、また目を閉じた。
夢の世界に行きたい。
いや、ここはまるで夢の世界だと思うが。
現実逃避は、やめよう。目を閉じていても、現実は変わらない。
それに、我が家の紋章はヤモリ。閉じない目を持つ冷血動物だ。
よく見るとつぶらな瞳が可愛いけど。
もう一度、今度こそちゃんと目を開けて、そっと妹の背に回した腕を抜く。
レティシアも、私の背に回していた腕を抜いた。
ぎゅっとして、ぎゅっとされていた……らしい。
「線を越えないように……と……」
妹から離れ、起き上がりながら言いかけた言葉が、途中で尻すぼみになる。
昨日、どこに指で線を引いたかは覚えている。ベッドの真ん中だ。
私の側と、妹の側に、きっちり半分に分けた。
そして今、妹の側にいる。
……私、かなあ。
私なんだろうなあ……。
それはもちろん、妹に抱きしめられて、こちら側に引き寄せられたという可能性は残るものの。
そうだとして、いや、そうでなくても、なぜ起きなかったのか。
寝ている時に他人に身体に触れられて。それで起きない怠惰を許されるほど、ヴァンデルヴァーツの当主というのは安眠を約束された地位ではない。
……他人では、ないからか。
同じく起き上がった妹と、ベッドの上で向かい合う形になる。
「…………あの、朝起きて気が付いたら、お姉様に抱きしめられていて」
確かに、ちょくちょく抱きしめたらダメかなと思っていたけれど。
一度だけ抱きしめて眠った時の安心か……熟睡感が忘れられなかったけれども。
まさか、寝ている時、無意識にそうしてしまうほどとは。
……レティシアは、いつ起きたのだろう。
「起こしなさい。そういう時は、すぐ起こしなさい」
「どうしてですか?」
は?
どうして?
ちら、と呼び鈴の紐を見てしまう。あれを引けば、隣室の使用人部屋からシエルが来る。多分、すぐ来てくれる。
でも、「妹の言っている意味が分からないので通訳をなさい」という理由で、全ての貴族が羨むような、優秀な当主補佐を呼ぶ勇気はなかった。
「だって、その……嫌でしょう?」
「嫌じゃありませんけど?」
即答する妹。
たすけてシエル。
あまりの言葉の通じなさに絶望感すら覚える。
だって、私は悪役令嬢で。妹は主人公で。
私は、妹に意地悪をしていて。彼女を辛い目にばかり……でもない気がするけど、日常的に嫌味は浴びせていて。
なのに、なんで。
――切り替えていこう。
「……忘れなさい」
「嫌です」
またも即答する妹。
私は、語気を強めた。
「――忘れなさい」
「無理です」
三度即答する妹。
細く息を吸って、喉に気合いを入れる。
目を細め、眉間にしわを寄せて、睨み付けながら冷たい声を出した。
「私は、忘れなさいと言っているのです。聞こえていないのですか?」
「聞こえています。でも、無理なものは無理です」
きっぱり言い切る妹。
……"黒い森"を――夜の闇で黒々と沈んだ木立と、わんさかいる熊に怯えた日々を――懐かしく思い出す日が来るとは。
さっきのは、最後通牒を叩き付けるような声色と表情だったと自負している。
ほとんど全ての状況で、私は立場が上だった。悪くても同格。
この場合は、私が当主でお姉ちゃんなのだから、私の方が立場が上のはずだ。
……いや、もしかして姉と妹って、妹の方が立場が上なのだろうか。
『年長者が譲るべき』とか、『お姉ちゃんなんだから我慢しなさい』とか、そういう話を聞いたこともあるような。
「……他言無用です」
譲歩する。
交渉の席では、譲歩させたことはあっても、譲歩したことはないのに。
それはもちろん、交渉の基本は、お互いが納得すること。お互いに利益を得られるようにすること。――その上で、ユースタシアに絶対的な利益を与えること。
なので、六対四ぐらいを基本に、国や家の格を考慮した上で、利益配分はこちらが提示する。
受け入れないなら、それは敵だ。
利益がどれだけ目減りしようとも、滅ぼすだけ。
でも、妹は敵じゃない。
滅ぼしてもいけない。
私の全てを差し出して、彼女に十の利益を。
脅しが効かなくて、自分よりいろいろと強い相手の交渉って大変だな……と、今さらながら、かつて私との交渉のテーブルについた者達に、ほんの少し同情する。
これでも話の分かる冷血動物だとは思うのだが。
「レティシア。いいわね?」
「はい。ないしょ、ですね」
唇に人差し指を当てるレティシア。
顔と心根と仕草はもちろんだが、言葉選びが可愛い。
私の語彙では、『他言無用』『秘密厳守』『機密事項』『漏らせば……分かるわね?』などが選ばれる。
「顔を洗ってきますわ」
「はい、お姉様」
寝室と扉で隔てられた洗面所で、冷たい水で顔を洗ってタオルで拭くと、鏡に映るのはすっきりした顔。
よく眠れたらしい。
「……ないしょ、かあ」
呟くと、その優しい響きに頬が緩む。
私と妹の、共通の秘密。
何があっても、誰にも言わないことが、たくさんある。
胸の内に秘めておくべき感情が、ある。
断頭台に掛けられても、口を割るものか。