表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/159

ベッドの上の境界線


 シエルと過ごした"黒い森"での訓練は、ところどころ記憶が飛びがちで、しかし、忘れ得ぬ強烈さをもって心に刻み込まれた。


 ……当時の私は、今より純真だったこともあり、シエルの言うことをあまり疑っていなかったが。


 "黒い森"以外も、思い返してみると、あれ、本当に当主として必要だったのかな……? という内容の訓練の数々。



 ――その全てが、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主の血肉になった。



 毒矢を弓につがえながら、向かい合う熊を睨み付けるより、目力が必要とされる状況があるだろうか。

 一度など、狼の群れに取り囲まれて観察されたことを思えば、社交界で向けられる視線の、なんと牧歌的なことか。


 守られた自家の屋敷内ではなく、お茶会や舞踏会の会場でもない世界を知った。


 それぞれの土地に、それぞれの生活がある。それを守り――時に踏みにじる。

 全ては、ユースタシアの安寧のために。


 それが、我がヴァンデルヴァーツの義務であり、忠誠の形。


 ……私は、父が急逝して後を継いだ、年若い当主だった。



 それでも、『仕上がり』には自信があったのだ。



 私は、この世で最も信頼できる教育係に教えてもらった。

 これは、断じて身内の甘い評価ではない。


 成人前で、足手まといの令嬢を守り、さらに教え導きながら"黒い森"を横断できるメイドが他にいるだろうか。

 ――それをメイドと呼んでいいのかはさておき。


 私は、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主。


 大仰な異名を。血塗られた歴史を。莫大な財産を。――清濁共に、ヴァンデルヴァーツの全てを継ぐに相応しい存在として、育てられた。



 ……なのに、レティシアはそんな私に睨まれても平然としている。



 正直、あまりにも効かなさすぎて、以前は持っていた、目力と悪い顔への自信をなくしたままだ。


 "裏町"って、熊がうじゃうじゃいる地域ではないのよね……? と不安になってしまう。


 それはもちろん、私は妹を潰そうとしていない。


 ただ、嫌われるべく、悪役らしく【公式イベント】をこなし、合間合間にもいやみったらしい憎まれ口を叩き……と、妹の健康や精神に悪影響が出ない範囲、演者の裁量の範囲内で、頑張って嫌がらせをしている――


「……お姉様? どうかなさいました?」

「……いえ。なんでもないわ。気にしないでちょうだい」


 ――はずなのだが。

 何かを間違えているような感覚。



 全ては、運命の筋書き通りに進んでいる……と、まだ信じられるのに。



「はい、分かりました。ところで、遅かったですね?」

「髪を乾かしていたから、ね」


 長いと、洗うのも、その後の手入れも大変だ。

 今はまだ夏だからいいが、乾かすのはシエルに手伝ってもらっても一仕事。


「お姉様の髪は長くて、綺麗ですね」


 妹が、ごそごそと私の背後に回り、髪が持ち上げられた。

 そっと差し込まれた指先で髪がすかれ、解きほぐされる。



 思わず、固まった。



 人に髪を触られたことが初めてでもない。

 シエルに、木製の櫛や手櫛でとかしてもらう時は、それが当たり前なのに。


 なぜか、妹の指で触れられると。

 頬が、熱くなって。


 ――すっと、切り替える。


 私は、【月光のリーベリウム】の悪役令嬢だ。『悪役』なのだ。


 正直、見えざる劇作家が書いたシナリオは、妹の可愛さ以外は平凡だ。


 それでも、私はこの役を演じると決めた。


 今は台本の行間。幕間で、舞台裏で――しかし、こんなに腑抜けていいものか。いや、いいはずがない。


 思わず緩む頬にぐっと力を込め、思わずぎゅっと閉じたくなる目を見開いて、息を整えた。



 ぱし、と振り返りながら手の甲でレティシアの手を振り払う。



「お姉ちゃん?」

「お姉様、と呼びなさい」


 久しぶりのお姉ちゃん呼び。――気を抜きすぎだ。


 そして、レティシアは私に気を許しすぎだ。私は……許されすぎ、だ。


 立ち上がって距離を取る。


「お姉様――」


 誰がどういう解釈でベッドメイクしたのか分からない、ぴったりと二つ並んだ枕を、引き剥がすようにしてレティシアの顔面に叩き付けた。


 中身は羽毛でふわふわなので、別にどうということもないだろうが。

 もちろん、投げられた枕を抱えるようにして私を見上げる妹にも、怪我はない。


 私は、ぼすん、とベッドを弾ませながら座る。

 そして、シーツの真ん中に、指ですっと線を引いた。



「立場をわきまえなさい。この線から入ってきたら、承知しませんからね」



「そんな」

「――同じことを、二度言わせないように。疲れるわ」


 実際、宿での眠りが浅かったのと、到着早々コンラートに会ったりしたせいで、色々と疲れた。

 妹を抱き枕にして寝たいのはやまやまだが、そんな贅沢な我が儘が許される立場でもない。


 ――"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主ともなれば、山海の珍味を取りそろえ、贅の限りを尽くしていると噂されることもあるというのに。


 毒矢で倒した熊の肉を、他の熊が集まってくる前に、持って行ける分だけ切り取って、焼いて食べる――なんて経験もあるので、『山海の珍味』だけはクリアしているかもしれないが。


 ……その程度の、立場だ。


 妹を可愛がることさえ自由にはできない、不自由な立場。


 それでも、貴族としての責任がある。

 特権も受け取った。

 私は、清廉でも清貧でもない。


 自領の特産品をふんだんに使った食事。大貴族にのみ許された個人用の温泉に、広い湯船。洗濯したての寝間着。上等で、清潔なシーツ。――極めつけに、ベッドは天蓋付きと来ている。


 自分の枕を離して整えながら、妹に背を向けて横になった。


「私は寝ます。ランプを消してきなさい」


「……はい」


 レティシアが部屋のランプを一つ一つ消していくごとに、部屋が暗く、闇に沈んでいく。


 夏で、暖炉の火もない。ヴァンデルガントはユースタシアの北部に位置しているため、朝晩は冷える。王都の自邸では、この季節は掛け布団を薄い物にしているが、ここでは少し分厚めの毛布で丁度いい。


 ……毛布は大判だが、なぜか一枚しか用意されていないので、レティシアが隣にごそごそと潜り込んでくるのは、許容する。


 呼び紐を引いてシエルを呼び、毛布をもう一枚追加してもらうべきかとも思ったが、すっかり寝る態勢に入ってしまった。


「お姉様。……おやすみなさい」


 横を向いて背を向けたままの私に、レティシアがおやすみの挨拶をしてくれる。

 ぐっと詰まりそうになる喉を、一度唾を飲み込んで湿らせてから、こじ開けるようにして、口を開いた。



「……おやすみ。明日は薬草園の視察です。寝過ごさないように」



 ……言えた。


 おやすみって。

 ちゃんと、起きている時に。


 言えた。


 憎まれ口ともセットだが。

 乗馬レッスンのために泊まった牧場の宿で、初めて一夜を共に過ごした時の後悔を、より深い物にしなくて済んだ。


「はい!」


 レティシアの声が明るくなる。


 ……いくつの後悔を、重ねてきただろう。


 それでも、妹が、こんな明るい声を出してくれるなら。


 ……それだけで、いいか。


 目を閉じて、さっき妹に投げつけたのと同じタイプの枕に頬を埋めて、眠りについた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 「悪役」令嬢ぉ! 生きとったんか、われぇ!? 帰ってきた! 儂らの「悪役令嬢」が帰ってきた!! …まあ、「熊とのガチ壮絶サバイバル」が隙間からビロビロはみ出まくってるんですけどね…。…
[良い点] お姉ちゃんの走馬灯?の後ようやく就寝w プレッシャーは消えたわけでなく…眠れる? [気になる点] >「そんな」 レティシアさんなにを期待していたのかなー 二人で寝る、ベット半分こは普通だよ…
[良い点] 確かに!どちらかというとレティシアさんに応援したくなっていますww
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ