ベッドの上の境界線
シエルと過ごした"黒い森"での訓練は、ところどころ記憶が飛びがちで、しかし、忘れ得ぬ強烈さをもって心に刻み込まれた。
……当時の私は、今より純真だったこともあり、シエルの言うことをあまり疑っていなかったが。
"黒い森"以外も、思い返してみると、あれ、本当に当主として必要だったのかな……? という内容の訓練の数々。
――その全てが、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主の血肉になった。
毒矢を弓につがえながら、向かい合う熊を睨み付けるより、目力が必要とされる状況があるだろうか。
一度など、狼の群れに取り囲まれて観察されたことを思えば、社交界で向けられる視線の、なんと牧歌的なことか。
守られた自家の屋敷内ではなく、お茶会や舞踏会の会場でもない世界を知った。
それぞれの土地に、それぞれの生活がある。それを守り――時に踏みにじる。
全ては、ユースタシアの安寧のために。
それが、我がヴァンデルヴァーツの義務であり、忠誠の形。
……私は、父が急逝して後を継いだ、年若い当主だった。
それでも、『仕上がり』には自信があったのだ。
私は、この世で最も信頼できる教育係に教えてもらった。
これは、断じて身内の甘い評価ではない。
成人前で、足手まといの令嬢を守り、さらに教え導きながら"黒い森"を横断できるメイドが他にいるだろうか。
――それをメイドと呼んでいいのかはさておき。
私は、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主。
大仰な異名を。血塗られた歴史を。莫大な財産を。――清濁共に、ヴァンデルヴァーツの全てを継ぐに相応しい存在として、育てられた。
……なのに、レティシアはそんな私に睨まれても平然としている。
正直、あまりにも効かなさすぎて、以前は持っていた、目力と悪い顔への自信をなくしたままだ。
"裏町"って、熊がうじゃうじゃいる地域ではないのよね……? と不安になってしまう。
それはもちろん、私は妹を潰そうとしていない。
ただ、嫌われるべく、悪役らしく【公式イベント】をこなし、合間合間にもいやみったらしい憎まれ口を叩き……と、妹の健康や精神に悪影響が出ない範囲、演者の裁量の範囲内で、頑張って嫌がらせをしている――
「……お姉様? どうかなさいました?」
「……いえ。なんでもないわ。気にしないでちょうだい」
――はずなのだが。
何かを間違えているような感覚。
全ては、運命の筋書き通りに進んでいる……と、まだ信じられるのに。
「はい、分かりました。ところで、遅かったですね?」
「髪を乾かしていたから、ね」
長いと、洗うのも、その後の手入れも大変だ。
今はまだ夏だからいいが、乾かすのはシエルに手伝ってもらっても一仕事。
「お姉様の髪は長くて、綺麗ですね」
妹が、ごそごそと私の背後に回り、髪が持ち上げられた。
そっと差し込まれた指先で髪がすかれ、解きほぐされる。
思わず、固まった。
人に髪を触られたことが初めてでもない。
シエルに、木製の櫛や手櫛でとかしてもらう時は、それが当たり前なのに。
なぜか、妹の指で触れられると。
頬が、熱くなって。
――すっと、切り替える。
私は、【月光のリーベリウム】の悪役令嬢だ。『悪役』なのだ。
正直、見えざる劇作家が書いたシナリオは、妹の可愛さ以外は平凡だ。
それでも、私はこの役を演じると決めた。
今は台本の行間。幕間で、舞台裏で――しかし、こんなに腑抜けていいものか。いや、いいはずがない。
思わず緩む頬にぐっと力を込め、思わずぎゅっと閉じたくなる目を見開いて、息を整えた。
ぱし、と振り返りながら手の甲でレティシアの手を振り払う。
「お姉ちゃん?」
「お姉様、と呼びなさい」
久しぶりのお姉ちゃん呼び。――気を抜きすぎだ。
そして、レティシアは私に気を許しすぎだ。私は……許されすぎ、だ。
立ち上がって距離を取る。
「お姉様――」
誰がどういう解釈でベッドメイクしたのか分からない、ぴったりと二つ並んだ枕を、引き剥がすようにしてレティシアの顔面に叩き付けた。
中身は羽毛でふわふわなので、別にどうということもないだろうが。
もちろん、投げられた枕を抱えるようにして私を見上げる妹にも、怪我はない。
私は、ぼすん、とベッドを弾ませながら座る。
そして、シーツの真ん中に、指ですっと線を引いた。
「立場をわきまえなさい。この線から入ってきたら、承知しませんからね」
「そんな」
「――同じことを、二度言わせないように。疲れるわ」
実際、宿での眠りが浅かったのと、到着早々コンラートに会ったりしたせいで、色々と疲れた。
妹を抱き枕にして寝たいのはやまやまだが、そんな贅沢な我が儘が許される立場でもない。
――"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主ともなれば、山海の珍味を取りそろえ、贅の限りを尽くしていると噂されることもあるというのに。
毒矢で倒した熊の肉を、他の熊が集まってくる前に、持って行ける分だけ切り取って、焼いて食べる――なんて経験もあるので、『山海の珍味』だけはクリアしているかもしれないが。
……その程度の、立場だ。
妹を可愛がることさえ自由にはできない、不自由な立場。
それでも、貴族としての責任がある。
特権も受け取った。
私は、清廉でも清貧でもない。
自領の特産品をふんだんに使った食事。大貴族にのみ許された個人用の温泉に、広い湯船。洗濯したての寝間着。上等で、清潔なシーツ。――極めつけに、ベッドは天蓋付きと来ている。
自分の枕を離して整えながら、妹に背を向けて横になった。
「私は寝ます。ランプを消してきなさい」
「……はい」
レティシアが部屋のランプを一つ一つ消していくごとに、部屋が暗く、闇に沈んでいく。
夏で、暖炉の火もない。ヴァンデルガントはユースタシアの北部に位置しているため、朝晩は冷える。王都の自邸では、この季節は掛け布団を薄い物にしているが、ここでは少し分厚めの毛布で丁度いい。
……毛布は大判だが、なぜか一枚しか用意されていないので、レティシアが隣にごそごそと潜り込んでくるのは、許容する。
呼び紐を引いてシエルを呼び、毛布をもう一枚追加してもらうべきかとも思ったが、すっかり寝る態勢に入ってしまった。
「お姉様。……おやすみなさい」
横を向いて背を向けたままの私に、レティシアがおやすみの挨拶をしてくれる。
ぐっと詰まりそうになる喉を、一度唾を飲み込んで湿らせてから、こじ開けるようにして、口を開いた。
「……おやすみ。明日は薬草園の視察です。寝過ごさないように」
……言えた。
おやすみって。
ちゃんと、起きている時に。
言えた。
憎まれ口ともセットだが。
乗馬レッスンのために泊まった牧場の宿で、初めて一夜を共に過ごした時の後悔を、より深い物にしなくて済んだ。
「はい!」
レティシアの声が明るくなる。
……いくつの後悔を、重ねてきただろう。
それでも、妹が、こんな明るい声を出してくれるなら。
……それだけで、いいか。
目を閉じて、さっき妹に投げつけたのと同じタイプの枕に頬を埋めて、眠りについた。