"黒い森"の記憶
夕食時に、自領産の食材がふんだんに使われた食事を、顔をほころばせて堪能するレティシアは微笑ましかった。
その愛らしさといえば、給仕役の使用人達の間に和やかな空気が流れるほどだ。
もちろん、同席している姉の頭の中にも和やかな空気が流れているのだが、それは表に出さない。
前菜にはチーズの盛り合わせ、メインディッシュには羊と豚を両方少しずつなど、行きの馬車で聞いた食材を指定した甲斐があったというもの。
食事の後は、ユーディットに報告を聞く。
今、我がヴァンデルガント領は、安定している。
この冬を――【イベント】を乗り切れば、レティシアにかなり良い状態の領地を渡せるだろう。
私は、当主としてこの領地を守り、富ませ、発展させる義務がある。
私の代で傾けるようなことがあってはならない。
ユーディットを含め、先代から引き継いだ物が大半。しかし、少数ながら、私が提案して実行に移された施策もある。
その後、なぜか私と一緒にお風呂に入りたがるレティシアの愛らしさにも負けず、一人で入浴を済ませ――
「あ、お姉様。おかえりなさい」
先に入浴を済ませた寝間着姿で、ベッドの上で待ち構えていた妹に迎えられる。
浴場から自室――領主の部屋――まで、寝間着の上に着ていた羽織り物を脱ぐと、ベッドの側の上着掛けに引っかけた。
もう一つサイズ違いで同じ羽織り物があり、それはレティシアの物だ。
そしてスリッパを脱いでベッドに上がると、膝をついて寄ってくる妹。
……この緊張感は、なんなのだろう。
意識しすぎか。
しかし、シエルと二人きりで森に入った時のことを思い出す。
……どこか、身の危険を覚えるような、緊張感。
野の獣と、お互いの距離を測る時のような、警戒心。
一年ぶりの視察。明日から、【公式イベント】がちゃんと起きるのかという不安もある。
なのでまあ、多少緊張するのは仕方ないかもしれないが、ここは森ではないし、一緒にいるのは血を分けた妹だというのに。
森でシエルに課された訓練内容は、狩りだった。
それも、貴族の遊興としての、騎乗して、猟犬で狩り立てた獲物を追い回して弓で仕留めるようなものではない。
無論、かつての妹がやったことがあるという、勢子を使うようなぬるい狩りでもない。
『優しい方』は、森に入り、猟場に設けられた燻製小屋で、仕留めた獲物の燻製を作るというもの。
貴族令嬢がする訓練としては、かなりハードなものだと思った。
どこが優しいのかと。
しかし、もう片方と比べると、屋根のある寝床……それに便所があって、少し歩くが綺麗な水の湧く泉があり、非常食も用意され、実入りが減るので避けたいが、作っている燻製を食べるという選択肢もあるので、いざという時も安心だった。
少なくとも『飢える』と思ったことや、『死ぬ』と思ったことはなかった。
この訓練の目的を聞いたら、シエルは「お嬢様は、森に入って金を稼ぐ厳しさ、辛さを知らねばなりません。貴族とは、それにさえ税を課す立場ですから」と。
なるほど、と納得し、そんなことにさえ思い至らなかった自分を恥じた。
これは私にとっては厳しく、辛いもの。しかしそれでさえ『訓練』で。
これを『日常』として生活している民がいるのだ。
『厳しい方』は……ユースタシア北部に広がる広大な森林地帯、通称"黒い森"を抜けるというもの。
食料や水を切り詰めた、最低限の装備で森に分け入り。
森に入るまでも、徹底的に人目を避けつつ。
無補給で。
結局、二週間掛かった。
近隣に集落のない、人の手の入らない森は……怖い。
そこに、二週間。
シエルがいたから、かろうじて正気を保てたが、一人だったら気が狂っていたかもしれない。
しかし、そんな漠然とした実態のない恐怖は、序の口でしかなく。
途中、ここはヴァンデルガント領ではないので、絶対に気を抜かないように、と言われた。
それも、三公爵家が一角、ハルガウ家の土地だと聞いた時は血の気が引いた。
"豪胆無比のハルガウ"という異名に怯えたのではない。
関所を通っていない上に、そもそも、あんな猟師風の格好で信じてもらえたかは分からないが、私だって"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の一人娘だ。
ハルガウは、"ユースタシア騎士団"と並び称される、"ハルガウ戦士団"を有する、武を司る家だ。
なので、訓練なら大目に見てくれるだろう。訓練とか、鍛錬とか、限界を超えるとか、そういう言葉が好きな家だ。
うちとは、特に仲が良くも悪くもない。
共に建国時から続く旧家だが、役割が違いすぎる。
武のハルガウ。鉄のハルガウ。石のハルガウ。
鉄を中心とした鉱山と、採石場を多数領有し、代々そこで働く力自慢の男達の中から一部が選抜され、戦士団の構成員となっていく。
今はお互い王都に本邸を構えているが、一応、領地としてはお隣さんでもある。
接している領地は"黒い森"で、境界線は、境目を示す壁はおろか境界杭さえなく、地図上にしか引かれていない曖昧なもの。
実質的に共有地であり、不干渉地帯となっている。
ただ、そこら一帯が、猟場でも、伐木場でも、豚の放牧地でも、山菜採りの採集地でもなく、不干渉地帯として塩漬けされているのは理由があって。
人より熊の方が多い、と言われるほどの、灰色熊の群生地なのだ。
ツルハシを持った熊を紋章に戴くハルガウの領地では、「ハルガウ戦士団の猛者は熊と見分けがつかない」なんて冗談が、荒くれの誇りを込めてささやかれるので、熊にも慣れているのかもしれないが、うちの紋章はヤモリなので。
そんな危険地帯に二人きりだと言われた時は、一瞬、事故に見せかけて私を消す計画が動いているのではないか――という恐ろしい想像が頭をよぎったほど。
連れがシエルで、さらに『公爵家の貴族令嬢が狩りの訓練のために、供を一人連れて"黒い森"に入って行方不明。熊に喰われたものと見られる』なんてニュースが流れた時、それがどんなに馬鹿げて聞こえるかを考えたら、その可能性はないか……と思い直したが。
結局、熊がうじゃうじゃいる地域に女二人という事実は変わらない。
もちろん、相応の備えはある。
ヴァンデルヴァーツが誇る毒は、人間相手以外も想定している。
"ヤモリ印"の矢毒は、ユースタシアの猟師御用達だ。
かつては対人用だったが、現在は条約で、戦争での使用は禁止されている。
……もちろん、いざという時は条約を破棄する気でいるのだろう。矢毒はいかなる種類も国外輸出が禁じられ、管理には王家も一枚噛んでいる。
狩猟用の矢毒は普通、万が一肉に残っても死に至らない麻痺毒だが、熊用だけは話が違う。
矢毒は全て、国に登録金を払った猟師のみが購入できる免許制で管理されている。だが、熊用の矢毒だけは、ヴァンデルヴァーツ家による身辺調査が要るのだ。
ひとかすりで人が死ぬ、致死性の猛毒ゆえに。
それですら、灰色熊を倒すのには短くて五秒、長くて二十秒かかる。
位置取りを間違えれば。兜のような頭蓋骨や剛毛に弾かれて、きちんと矢が刺さらなければ――毒が回る前に、殺される。
正直、死ぬほど怖かった。
この訓練の目的を聞いたら、シエルは「お嬢様は、死の恐怖を知らねばなりません。ヴァンデルヴァーツ家とは、それを与える立場ですから」と。
なるほ……ど? と、いまいち納得しきれないまま、死の恐怖を骨身に刻んだ。
夜に空を見上げれば、木が月の光を遮り、銀砂をまいたような星空が枝葉の形に黒々と切り取られる。
焚き火に薪を足しながら、シエルはいろいろと話してくれた。
山野で生きていく術。貴族としての心得。最近庶民の間で大人気で貴族の中にもファンがいる――私のことだが――恋愛小説の展開予想。……話題は、本当にいろいろで、少し低い優しい声で、とりとめもなく、ささやくように。
人の気配は、自分とシエルだけ。
――世界に、私達だけみたい。
……と、柄にもなく詩的なことを思ったのを覚えている。
実際に、私達だけならよかったのだが。
時々、焚き火の明かりが届かない暗がりから熊の気配がしたので、あれは多分、現実逃避。
必死に「火を焚いていれば大丈夫よね」と言う私に、「熊は火なんて恐れませんよ」と、笑顔で言うシエル。
誰にも言えないが、この状況で笑顔の彼女が、熊より怖かった。
メイド服姿の時は大きなお団子にまとめている黒髪を、細い青のリボンでポニーテールに結い上げた姿は、いつにもまして凜々しく、頼もしかったが。
旅の始まりの時は、行き先や目的を知らされていなかったこともあり、解放的な野外訓練に心が浮き立ち、お揃いのフード付きケープと狩人風の服を、嬉しく思ったりしたものだが。
もうちょっとこう、命の危険がない行程だったらよかった。
今よりも髪が短かった、恐怖に青ざめて震える私を、シエルは後ろから抱きしめてくれた。
それだけで安心して、肩の力が抜けたものだ。
――その時のささやき声を、覚えている。
自分が、なんて答えたのかも。
「お嬢様は……私と死ぬのは、お嫌ですか?」
「シエルとなら嫌じゃないわ。でも、こんな所で死にたくはない」
私の返事に、くすくすと笑って、後ろから頬を寄せてくれるシエル。
確か森に入って五日目のこと。二人ともお風呂に入っていなくて、街なら騎士団に通報されていたかもしれない臭いだったと思うが、私も同じなので、あまり気にはならなかった。
――もしも私が、シエルと一緒に"黒い森"で死んでいたら【月光のリーベリウム】のシナリオがどうなっていたのかは、少し気になるところだ。