ユーディット
領主の館に戻った私達は、もう一度応接間に戻ってきていた。
シエルと王子の護衛は、部屋の外だ。
一応はトップ同士の密談のようなもの。あちらさんにはご遠慮願った。
しかしさすがに王子を完全にアウェーに放り込むのも、微妙なところなので、お互いに護衛なし……という体裁を取っている。
妹も同席させていいのか微妙なところだが、まあこういう雰囲気にも慣れてもらわないと困る。王子様は嫌とは言うまい。
私とコンラートは、ローテーブルを挟んでソファーに腰かける形で向かい合っていた。
ユーディットは、ローテーブルの横に置かれた椅子の一つに座っている。
……レティシアは、私の隣だ。
私とユーディットが並び、コンラートとレティシアが並ぶべきではないかと……【月光のリーベリウム】的には思うのだが、この席順に決めたのは私ではなく、ユーディットだ。
まあ、領主とその血縁である妹が並ぶ配置は、おかしなことはない。
こいつは一応第一王子殿下なので、向かい合うのは公爵家当主と公爵家令嬢であるべき、という考え方も分かる。
「お茶もお菓子も要らないとは、コンラート第一王子殿下は、まっすぐでございますね」
ユーディットが口元にしわを寄せて微笑んだ。
「長話をするつもりはないだけです。お気になさらず」
コンラートも優雅に微笑み返してみせる。
「本日は、どのようなご用向きで?」
「ご存じの通り、私は査察で来ているわけですが。"領主代行"としてヴァンデルガントを治めているあなたの口から、領地の不安要素について聞きたい」
「それを調べるのが査察なのでは?」
「もちろんそうです。しかし、どう報告するか迷っています。……あなたの意見が聞きたいのです。ユーディット領主代行殿」
ユーディットが私を見た。
「許可します。前倒しの領主への報告と思って、話せる範囲で話しなさいな」
「……そういう時は、隠すことなく、と言うものでは?」
「陛下になら、そう言ったでしょうね」
王子の言葉を鼻で笑って流した。
悪いが第一王子殿下には、地位と信頼の重みが足りない。
とはいえ、腐っても第一王子。一応は陛下の名代として来ているのだ。
まあ、普通、王子が見える範囲で不正があったら、完全に腐りきっている。
コンラートは査察用の人員としてはお飾りで、むしろ大事なのは、相手がそのお飾りに気を取られている隙に、他の人員が調査することだったりするが。
しかし、不安要素を問うとは、やはりこいつは意地が悪い。
この質問は、領主代行に領主――公爵家と、王家のどちらを重要かと問うているに等しい。
素直に不安に思っていることを言えば公爵家の名誉に泥を塗るが、飾った答えを言えば王家への忠誠を疑われる。
レティシアもそれが分かったのか、ハラハラした様子で私、コンラート、それにユーディットを順番に見る。
ユーディットは、静かに微笑んだ。
「不安などありませんわ」
完全に公爵家寄り。コンラートがぴくりと眉を動かす。
「今は他国に戦争の兆しもありませんし、盗賊などの報告も上がっておりません。犯罪件数は横ばい。秋の収穫も期待できるでしょう。懸念事項を挙げるなら、冬は冷え込みそうで、薪代が上がりそうなことぐらいでしょうか……」
レティシアがうつむく。
……"裏町"では、暖炉がある家の方が少ない。
貧しい民は、冬に死ぬ。王都はユースタシアの中では暖かい方とはいえ、寒ければ身体は弱る。病気にもなりやすい。
レティシアは風邪を引いたと言った。
風邪は誰でも引く。王も、貴族も、騎士も、平民も、平等に。
そして、暖かい部屋も、厚い毛布も、栄養のある食事も、何もかも持たぬ貧しい民が死ぬ。
レティシアは生き延びた。……運よく。
「……ヴァンデルガントでは、全てが上手く行っていると?」
「そうは申しません。人に行える施政に限界はあるものです。……それでも我らは、ヴァンデルヴァーツ家を主と戴いた。まともな頭のある貴族は、案外と少ないものです」
そこまで言わなくてもいいのだが。
「……もちろん、王家あってこそですが」
にこやかに付け加えられる言葉は、もはや嫌味にしか聞こえない。
コンラートも、にこやかな笑顔を崩さないところだけは褒めてやってもいい。
ユーディットは、落ち着いた声で王子へと話しかけた。
「……コンラート殿下。ヴァンデルガントで、何を見られたのですか? そして、何を不安に感じられたのですか?」
「……ルインズ公国の民です」
「ああ、かの国より流れてきている者達がおりますね。それが何か?」
「……良い暮らしぶりとは、言えないようですね」
国として問題にするような『不安要素』ではない。
それでもこいつが話題にするのは――まあ、レティシア絡みか。
「仕方ありませんね。僅かな財産は旅費に消え、余裕はない。土地に根付き、代々暮らす者達とは条件が違います」
「……分かっています。ですが、ヴァンデルガントの民なのでしょう?」
ユーディットが頷く。
「ええ。ヴァンデルガントでは、王国法に基づいて、一年分の人頭税を一括で納めるか、一所で暮らしながら毎月税を納めるか、定められた労役を行うことで、領民として扱います。……王国法に反する扱いがございましたか?」
「……ありません、ね。少なくとも大規模には」
どうせ、貧しい民に、妹の姿をダブらせてでもいるのだろう。
私も通った道だ。悩むといい。
大貴族や王家とて、全ての民を平等に慈しむことなどできない。
『良い君主』の条件をどこに置くか、だ。
今は戦乱の時代ではないにせよ、備えを怠れば我が領は地図から消える。
私は最高の領主ではないが、最低の領主ではないことも確かだ。
「コンラート殿下。貴方は、臣下の意見に耳を傾けられる者でありたいと、そう思いますか?」
「……ええ、そう思います」
つまり、これから意見を言うと。
それに対して何かくだらない横槍を入れるような真似をすれば、王としての器量が知れるぞ……と。
まあ、ユーディットに任せておけばよかろう。
「では、焦らないことです。貴方は、道を踏み外さなければ、次代の国王となりましょう」
私達の前には、赤い絨毯の敷かれた道がある。
この世で最も栄誉ある、血の染み込んだ道。
王家、そして貴族が生まれながらに歩むことを定められた、支配者の道。
「ルインズ『共和国』を……民が治めようとした国を、覚えておいでですか? ……民は無力ではない。しかし、万能ではない。理想を語る者に人はついて行きます。けれど山羊は時に、羊の歩めぬ岩山を行く……」
ルインズは、『正統な王家』が絶えそうになった国だ。
私の当主就任からそれほど経たぬ頃に、『革命』という名の反乱によって、公国から共和国へと名前を変えた。
一度頭がすげかわり……もげた。
民が民を治めるという触れ込みで打ち立てられた、革命政権とやらの首を落としたのはユースタシア騎士団の剣であり、掲げられた自由とやらを踏みにじったのは騎馬の蹄。
だが、その前から腐っていた。
民は無力ではないし、愚かでもない。
ただ、私達支配者階級は、生まれた時から、領地を治める術を教えられている。
その表面だけをなぞれば……そして、その表面だけを否定すれば、王家と貴族による支配よりも、なお醜悪な政治劇が繰り広げられたのは、必然だったのかもしれない。
最終的に周辺諸国は、それを反乱として処理した。
他国との婚姻を通じて残っていた正統な王家を打ち立て、全てを――私達が相応の利益を得られるようにした以外は――元通りにした。
私達は、恐れたのだ。あの古くさい断頭台で首を落とされることを。
今では滅多に使われない骨董品。
不名誉刑の最たるもの。
私がいずれ辿る未来。
古い時代の象徴にして、時代の変革の象徴でもある。
元を正せば今ある国々も、ルインズの革命政権と似たようなことをしたが、乱れきっていた乱世と、今の平和な時代とでは事情が違う。
ユースタシアの建国戦争は、断頭台をちらつかせての恐怖政治に諸侯達が反発したことに端を欲する。
先の支配者を断頭台に送ったという点では、ルインズの革命主義者達と同類だが、建国王と奴らとでは、決定的に違う点がある。
私達の祖先はその後、それなりにまともな政治をした。
当然だ。我らが祖は、既に領地を治めていた。
少数ながらそれぞれの軍を持ち、小さいながらそれぞれの『国』の長だった。
他の『国』と交渉し、同盟を結び、力を束ね……現状がある。
革命思想とやらは面白かったが、結果はあの有様だ。
「ことさらに雄々しい山羊であろうとしてはいけません。我らは杖を持って道を指し示すだけの牧人に同じ。羊が歩める道を選び、豊かな草を食めるように整えるだけが仕事……」
いつか、全ての民に平等に知識が与えられ、その中から最も優れた者が選出され、道を指し示す日が来るかもしれない。
もしかしたら私が首を落とされ、レティシアのような視点が国の『上』に入るのが、その一歩なのかも。
それでも、その日は今日ではないし、明日でもない。
それは、いつかの遠い未来。
私は、胸の紋章が刺繍されたポケットの中にしまわれた、紋章入りの懐中時計に手を当てた。
歯車は、きちんと歯と歯が噛み合わねば動かない。
時計の針は刻まれていく。この世界は少しずつ先へ進む。
一秒一秒先へと進み、決して前へは戻らない。
ルインズ共和国は、その針を、いっぺんに先へ進めようとした。
そして、壊れた。
私は――同じ過ちはしない。
運命に従って、シナリオを一幕ずつ、一場面ずつ、忠実になぞっていく。
まあ、ちょっと違うところもあるけど。
コンラートが黙り込んだことで応接室に満ちた沈黙を、ユーディットの落ち着いた声が払う。
「……私は、ルインズの出身です。コンラート殿下」
「……え?」
「この地へ来たのは革命前ですが。隊商を率いて行き来する内に……ここへ根を下ろす決断をしたのです」
子供が出来たからと聞いている。
伴侶はだいぶ前に亡くなったが、しかし子供や孫には恵まれている。
隊商時代に培った経験に知識、そして何よりも人脈。肌感覚で庶民の生活を知り尽くしながらも、そこにいい具合に入り込んで物を売り買いし、旅歩く……優秀な隊商の長とは、移動する領地を治めているようなものだ。
妊娠は予定外だったらしいが、無事に隊商を代替わりさせて自分は土地に根付き、ここヴァンデルガントの街の商会でも頭角を現し、若き先代領主――私の父――に是非にと請われ、貴族家に召し抱えられたあたり、応用力が高い。
当たり前の日常の最適化と、突発的な事態への即応。相反する要素の両立ができる彼女は、得難い人材だ。
頼り切りというわけでもなく、部下の文官達も伸び伸びと育っている。うちは大きな領地で、人材を育成に回す余裕がある。付け加えるならば、よそより高い給金で繋ぎ止める甲斐性も。
「あの地は私にとっては故郷です。……狭く息苦しい国ではありましたが、燃えていい国ではなかった……」
彼女の故郷は、他国からの侵略ではなく、自国の愚かさによって燃えた。内心では複雑だろう。
ユーディットは、神妙な面持ちになって聞いている王子に、顔のしわを深めながら柔らかく微笑んだ。
「……よき王となられますよう、コンラート殿下。ヴァンデルガント領は、きっとそのための助けとなりましょう……」
ユースタシア王国の直轄地だけでは、王国は王国たり得ない。
それに大貴族の領地が加わって、王国は初めて盤石なものとなる。
「……はい。貴重な勉強をさせていただいたようです」
真面目な顔で殊勝に頷いたコンラートがこちらを見ると、笑った。
「良い領主代行に恵まれたのですね、アーデルハイド嬢」
「それには自信がありますわ」
嫌味とも取れるが、だとしても事実なので腹も立たない。