行きの馬車
視察のメンバーは、最後まで迷った。
公式のシナリオでは、主人公であるレティシアは当然として、攻略対象である三人の男どもと、私が出演するのが確定している。
男どもはそれぞれの理由で向こうにいるので、私とレティシアさえ行けば、後はある程度運命に任せてもいいはずだ。
もちろん、視察も真面目にやらなくてはいけないことを考えると、シエルは外せない。
四人乗りの馬車を使うならば、もう一人を乗せてもいい……が、仕事とはいえ、レティシアの言う通り『旅行』だ。
メインの馬車は、気心の知れた者達だけの方がいいだろう、と、御者の他はこの三人だけにすることにした。軽くなって馬の負担も減る。
さすがに公爵家の当主と、爵位継承権第一位たる妹も一緒なので、護衛の馬車が一台付く。
こちらは幌馬車で、御者を含め五人。
本気で公爵家を狙ってくる襲撃者を相手にするとなれば心許ない人数だが、街道は"影"が巡回しているし、正規の街道警備隊もいる。
何より、情報収集は怠っていない。それだけの戦力を気付かれずに動かすのは難しいはずだ。
と、つい癖で襲撃を想定してしまうが、今のところ襲撃計画はもちろん、盗賊の話も聞かない。
運命のシナリオを信じ切れないところもあるが、そういう【イベント】もない。
私の断頭台行きが決まっているから、勘違いしそうになるが。
【月光のリーベリウム】は恋愛シミュレーションゲーム……恋愛物語なのだ。
そういう不安は常に心の片隅に置いておくべきだが、とりあえず差し迫った懸念事項は――
「……お姉様。隣、よろしいですか?」
――そういう可愛いことを言う妹に、なんと言うべきか。
妹の言葉を聞いた瞬間、脳内の騎手達が、一斉にスタートする。
トップスピードで先頭に躍り出たのは「もちろん。お姉ちゃんの隣に来なさい」。
出遅れたが食らいつくのは「前に来なさい。顔が見たいわ」。
脚を残して後方を駆けるダークホースが「お姉ちゃんのお膝の上においで」。
ダークホースを一瞬応援したくなったあたり、心が弱い。
馬車に乗り込むと、私は妹を見下ろして、素っ気なく――少なくともそう聞こえるように――言い捨てた。
「……好きになさい」
脳内騎手達が一斉に落馬する光景を幻視する。
それでも妹は隣がいいと言っているのだから、強いて言えば一番目、「もちろん。お姉ちゃんの隣に来なさい」と同じ意味になるのだろうか。
順当なレース結果とも言える。
「……はい!」
レティシアがいそいそと私の隣にやってきて、ちょこんと座った。
距離が近く思えるが、私には姉妹がいた経験がないために分からない。
普通は、こんなものなのだろうか。
少なくとも周りの、シエル、御者、それに見送りの執事と屋敷に残る使用人達は、誰もレティシアの態度に違和感を持っていないようだ。
「留守を任せます」
「は。万事お任せくださいませ」
銀髪の執事がしわの刻まれた顔に微笑みを浮かべ、一礼する。
「……まあ、羽根を伸ばしなさい。戻った時に体裁が整っていれば、うるさくは言いません」
執事の後ろに並んだ男性使用人とメイド達が、揃って一礼する。
このあたりは、さすが公爵家の使用人だ。
シエルが乗り込み、馬車の扉を閉める。
「出しなさい」
「は」
御者が短い返事を返し、馬車が動き出した。
少しして、背後で歓声が上がる。
耳をすませば「いよっしゃあああ!」「話が分かるぅ!」「やったー!」「のんびりできるー!」「ヴァンデルヴァーツ万歳! 夏季休暇万歳!」と喜びの声。
とりあえず、夏季休暇ではない。
このあたりは、公爵家使用人にあるまじき態度だ。
「あはは……」
レティシアにも聞こえていたらしく、苦笑していた。
シエルも、小さく息をつく。
「帰ったら、注意せねばなりませんね……」
「執事が注意してくれているでしょう」
視察は、例年のもの。父に連れられて行き、少し大きくなってからは、少しずつ領地経営のことを学んでいった。
母が存命の時は一緒に行くこともあったし、王都より空気のいい所だから、静養のために長期滞在している母に、視察とは別に会いに行くこともあった。
何度となく訪れた領地。――これが最後だ。
でも、妹と一緒に行くのは、初めて。
ちょっとうきうきする心を抑制する。
今回の【視察イベント】は、恋愛よりもむしろ貴族としての重要度が高い。
レティシアは、学ばねばならない。
表面的なマナーや教養ではない、貴族としての精神を。
この国がどんな風にできているのかを。
"裏町"の片隅や、ヴァンデルヴァーツの屋敷に王城……狭い世界ではなく。
まあ、出会う面々が同じ顔ぶれ過ぎてに新鮮味が足りない気もするが、旅先で出会うから特別感があるのだろう、多分。
悪役令嬢である私は、舞台装置だ。
妹を領地へ送り届け、視察の手はずを整えるだけが仕事。
だから、私と妹との【個別イベント】は……ない。
「あふ……」
隣に座る妹が口に手を当てて、あくびを噛み殺した。
そういう気を抜いたところも可愛いなあ、と内心で思いながらも、じっと無表情で見ていると、その視線を勘違いしたのか、レティシアの頬が赤くなる。
「ご、ごめんなさい。楽しみで、なんか寝付けなくて……」
楽しみとかそういうこと気軽に言う……誤解するでしょう、と心の内でため息をついた。
攻略対象の男どもが見たら、そのまま恋に落ちそうだ。
いや、もうとっくの昔に落ちてそうだが。
なにしろ、うちの妹は可愛いから。
「少し寝なさい。道中は長いから」
「は、はい。……じゃあ失礼します」
失礼?
それがどういう意味か聞こうとした瞬間、肩に重みを感じた。
レティシアが身を委ねるように身体を預けてきて、無防備に力を抜いて目を閉じている。
以前ベンチで肩を貸したが、その時と同じ体勢だった。
礼を! 失するにも! ほどがある!!
声にならない叫びを内心で上げ、現実にも何か言おうと口を開くが、ぱくぱくと言葉にならない。
そうしているうちに、ふわっと彼女の身体から力が抜けた。
……うちの妹は、寝付きがいい。
「……懐かしいですね、アーデルハイド様」
少しして、シエルがぽつりと漏らした。
「ええ……そうですわね」
――昔の私も、こうやって馬車に揺られているうちに眠くなって、シエルに同じようにしてもらった。
彼女も覚えていてくれたのか。
今度は、私の番。
私と妹の間に、【公式イベント】は何一つないけれど。
これもまた、旅路を彩る、ほんのささやかな思い出になるだろう。
――でもこれ、悪役令嬢らしくはないですわよねえ?
お姉ちゃんと悪役令嬢の板挟みで苦悩する。
今回は、妹の安眠を優先した。
……主人公の体調は、全てに優先する。
多分。