出会い頭の約束
先日の【乗馬イベント】以来、妹とちょっと、気まずい。
正確に言えば、私がレティシアを避けている。
この三日、出かける用事にかこつけて外食してきたり、部屋でする仕事があると言って、食堂でさえ顔を合わせないようにしている。
嘘ではないが、家で食事するぐらいの時間は取れる。
妹と過ごせるのが、一年ほどの僅かな期間となれば、できれば食事は一緒にとりたいと思っているのだが。
怖かったのだ。
目をそらして解決する問題など何もないと、知っているはずなのに。
妹に怪我はなかったが、タイミングや私の言動から、突き落とされて落馬したのだと……分かっているだろう。
しかしレティシアは、私がいなくなってからもあの三人に対して、落馬はあくまで単なる事故であるというスタンスを崩さなかったらしい。
王宮・ユースタシア騎士団・宮廷医師団、その全てから公式・非公式問わず、何らかのアクションはなかった。
私がヴァンデルヴァーツの当主である以上、怪我もしていない小娘の証言などに価値はない。
だから、もし妹が私をこの時点で当主の座から追い落とそうとしても、はねのけるのは簡単だった。
ただ、かばわれるとは思っていなかった。
……そういう女の子なのだ。
身内の情なんてものを信じている。――あながち間違いでもないが。
こうしている間にも、妹は王城へ出かけている。
きっと【攻略対象】との【個別イベント】を積み重ねているのだろう。
ただ、彼女の護衛兼付き人を務めた者にあくまでさりげなく聞いてみると、会う相手はバラバラのようだ。
王子、騎士団長、医師長、それに城の衛兵、騎士団、医師団……と、幅広い。
誰に脈がありそうかとか、そこまで突っ込んだことは聞けなかった。
シエルが同行していることもあるので、彼女ならもしかして察したりしていないか……と思うのだが、【月光のリーベリウム】の案件は、私一人でこなさなければならない。
私が最も信頼する部下であり、他家からも羨まれるほどに優秀な当主補佐の力を頼るわけには、いかないのだ。
ぼんやりと、次の【イベント】について考えながら廊下を曲がると、明るい声がした。
「……あ! お姉様!」
――油断した。
それは、廊下で出くわすことはありうる。
同じ屋敷に住んでいる、姉妹なのだから。
ただ、おおまかな予定は把握している以上、後は、足音と気配に気をつければ、避けられるはずだった。
いつまでも避け続けられるはずも、ないのに。
思わず一歩下がって目をそらしたくなったが、公爵家当主としての矜持が、私の足をその場に縫い止めた。
「――なんの用ですの?」
精一杯の虚勢を張って、きっと睨み付けると、妹は、ちょっと目を伏せた。
目力への自信を取り戻したのは、一瞬。
「最近お姉様のお顔を見られなくて……少し、寂しくて」
さびしい。
サビシイ。
……『寂しい』?
一瞬、異国の言葉かと思った。
他国出身の"仕立屋"に対しても、今、本当にユースタシアの言葉を喋っているのかと思うことがあるが。
この妹は、何を言っているのだ。
自分をポニーに乗せた上で泥沼に突き落とすような姉に対して、何を?
どこまで分かっているのかは、分からないが。
それでも、私がにこやかで慈悲深くて優しいお姉ちゃんでないことぐらい、分かるだろうに。
妹は顔を上げると、微笑みかけた。
「でも、お顔を見たら安心しました」
あんしん。
安心と言ったのか? と思うが、今度はもう少し素早く意味を理解する。
が、やはり妹の心が理解できない。
ほの暗い深淵に住まう異形の悪鬼の方が、もう少し自分に近い分、理解しやすいのではないか、と思うほどだった。
心が清らかで純粋で美しくて優しい人間のことは、理解できない。
――今までは、理解する必要もなかった。
そんな人間がいると想定して動く必要など、貴族にはない。
……そういえば、『ゲームの中の妹』は、【個別イベント】で弱音を漏らすことはあれど、それは誰かを妬んだり、恨んだりするものではなかった。
そんな妹の心を傷つける存在を、私は許せなかった。
ただ。
私が、【月光のリーベリウム】で一番嫌いな登場人物は。
『アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ』だ。
こいつがいるせいで、物語に集中できない。
名前が同じだし、顔がそっくりだし、微妙に自分が言いそうなことを言うし。
とにかく、何もかもが気に食わなかった。
それはもちろん、嫌な奴を配置して、最後にそれを排除してめでたしめでたし、というのは物語の基本的な手法だ。
ただ、恋愛物語としては、様々な問題を乗り越えながら絆を育んでいくのがメインなのだから、こういう妨害要る? という底の浅い話作りの手法でもある。
私が無言で固まったのをどう解釈したのか、レティシアが続けた。
「お姉様。今日は、夕食をご一緒できますか?」
できる。
即答したかったが、心の中の欲望さんには、一度理性を通してもらって。
……今後も、【月光のリーベリウム】のシナリオ通りに誘導するためには、私が妹から、あまりにも避けられる事態にならなかったのは、喜ばしい。
ただ、精神的な負担が大きい。
「ええ、そうね……一段落、したから……」
実際、妹を『本当に』落馬させることなく【乗馬イベント】を終えたのだから、一段落と言っても嘘ではない。
間を置かずやってくる次のイベントに備えつつも、一歩ずつ目標――断頭台――への階段を上っているということで充実感はあるし、一歩ごとに重荷が軽くなっていく気もする。
「本当ですか!?」
妹が手を合わせて喜ぶ。
その反応も可愛い……が、なぜ私がこんなにも可愛い妹を見ていられるのかは、実のところ謎だ。
もっと、嫌われるかと思っていたのに。
【テキストログ】に存在しない行間では、私と妹は、もっとギスギスして、冷え切って、最低限の事務的な会話しか交わさないような――そんな間柄だと、思っていたのに。
「そうだ。お姉様。先日の乗馬、ありがとうございました。楽しかったです」
「たのっ……し? かった?」
思わず聞き返していた。
【落馬イベント】を無視しても、妹は、ポニーに乗せられた上に、満面の笑顔を噛み殺しているために仏頂面の姉と並んで歩いただけだ。
あの三人の中の誰かが、一緒にいるだけで嬉しいほど好きな人になっている様子もない。
「ええ。でも私が落馬してしまったせいで、中断させてしまって……」
「…………」
いや、その解釈はおかしい。
……気付いていないと考える方が不自然な状況だ。
あの時レティシアは、何か、言いかけていた。
感情を抑え込むように顔を伏せて、肩も震わせていたではないか。
あれは、悔しさを飲み込んだのではなかったか。
悲しみを、痛みを、事を荒立てないために、自分一人の胸の内に、押さえ込んだのではなかったか。
……『そういうことにしよう』という意味なのだろうか?
「でも、あの時は聞けなかったんですけど」
と、前置きしてから、妹が続けた。
「なんで、私の馬はポニーだったんですか?」
そんな真剣な顔で聞かないで。
あの時はそれが最善だと思ったのよ。
実際、私の愛馬と同クラスの馬となれば、上手く突き落とせたかどうか。
どんな理由であれ、落馬するような事態となれば、驚いた馬にうっかり蹴られる可能性はあるし、馬体が大きければ蹴られた時の危険性も格段に跳ね上がる。
「……いろんな種類の馬に……乗るのも、いい訓練になるのよ」
私がんばった! 咄嗟にひねり出した割には、説得力ある!
「なるほど! じゃあ今度は、フェリクス様が乗っていたような大型の馬でしょうか?」
「体格の問題とかも……あるから」
私はシエルからそういう訓練も受けたけど。
「あ、そうですね。私まだ、初心者ですから」
なんだかんだ一応遠乗りに付き合えるまでになっているので、初心者でもない。
ただ、初心者でなくなったと思った頃が危ないので、そういうことは言わない。
妹が、私と同じ青い瞳で、じっと見つめてきた。
「――また、お姉様と一緒に乗馬をできたら嬉しいです。そういう機会が、あるでしょうか?」
――もう、ないのだ。
私と妹が乗馬をするような公式イベントは、もう。
これから忙しくなる。夏が終われば、すぐ。
そんな時間は、取れないだろう。
それに、そんな時間は、取ってはいけない。
妹と王都郊外へ出かけ、乗馬を楽しむようなイベントをして情を深めれば、お互いに辛くなるだけだ。
傷つけたくない。
……傷つきたくもない。
「……しばらくは、難しいですわね」
その『しばらく』が終われば、私の出番はない。――命も。
妹が真剣な顔で頷いた。
「はい。すぐでなくても。――いつか、絶対に」
すぐでなくても。
いつか。
絶対に。
――いつか。
妹の言葉は、妙に強く胸に響いた。
あの世とか?
……あの世があったとして、生前の行いによって天国と地獄に分かれていれば、私は地獄行きだろう。
むしろ地獄に行かない貴族など、貴族失格まである。
私は死後の世界などあまり信じていなかったが、この世界が【月光のリーベリウム】という名前の恋愛シミュレーションゲームの舞台である――なんて、非現実的な現象が大手を振って歩いている現状を考えると、あながち馬鹿にもできない。
妹が、私の手を取った。
反射的に手を引いて逃げようとするが、両手でぐっとつかまえられる。
「――約束、です」
妹が手を放した。
「それではまた、夕食の席で!」
手を振ってから、ぱたぱたと駆けていく。
貴族の令嬢としては、廊下を走るものではない、と注意しようと思ったが、その背中に向けて叫ぶ元気も、追う元気もなかった。
後で悪役らしく、嫌味を込めて叱るとしよう。
視線を、手に落とす。
ほんの少し、さっきのぬくもりが残っていて。
ぎゅっと手を固く握りしめると、そのぬくもりは分からなくなってしまった。
もう一度開いて、じっと手を見る。
……守れ、ないのに。
そんな約束。
妹のことも、守れないのに。
妹を守るのは、私じゃないのに。
私の『役』は、違うのに。
ぽつりと呟いていた。
「……いつか?」
私にはいつかなんて、ないのに。