妹の避難場所
ひょろりとした"仕立屋"が、蜘蛛のように音もなくレティシアの背後に回った。
そして、長い手を伸ばす。
「それでは、失礼いたします……」
「ひゃっ!?」
もみゅり、と豊かな胸を揉まれ、身をすくませて、目を見開くレティシア。
すぐに反応し、背後の彼女を突き飛ばして、転がるように駆け寄ってきた。
「い、今! 胸、揉まれましたよ!?」
そして私の背後に隠れる。
……避難場所にしてくれるのか。
私を。
私のような女を。
胸の奥から湧き上がってくる、じんわりとした姉としての幸せのような何かを、じっくりと噛み締め――たいのはやまやまだが。
これでは、話が進まない。
反芻するのは後にして、私は今やるべきことを済ませるために口を開いた。
「レティシア、落ち着きなさい」
「お姉ちゃん……」
お姉ちゃんと呼ばれる幸せも、やっぱりじっくり噛み締めたいのだが、今はその時間がない。
運命を呪いつつ、私を妹と引き合わせたのも、その運命というやつのお導きだ。
「お姉様、と呼びなさい。教えたでしょう」
「あ、はい。そうでした……」
我が家に迎え入れることが決まった時、そう伝えてある。
貴族としての言葉遣いを徹底させ、立ち居振る舞いやマナーも教え込む教育は、もう少し後だ。
基本は私の教育係でもあったシエルに任せ、折に触れて私や、他のキャラクターが教える。
そういう筋書きだ。
ただ、とりあえず呼び方だけは『お姉様』に改めるように伝えておいた。
そういうシーンは、【月光のリーベリウム】ではない。
ただ、ゲームの中のレティシアは、初めて出会った時を除いて、私を『お姉様』と呼ぶ。
だから、きっと――『ゲームの中の私』は、最初にそれを教えたのだろうと、私もそうしたのだ。
私が知っている彼女は、ずっと『お姉様』呼びで。
……『お姉ちゃん』と呼ばれるのは新鮮で、すごく嬉しくて……。
一瞬、それぐらいは変えなくてもいいでのはないか、と思ったけれど。
私に、運命を変える気はない。
「それでお姉様。……どうして私は、いきなりこの人に胸を揉まれたんですか? 新手の挨拶ですか?」
そう言いながら、ふと気が付くと、私の腕に手を絡めるようなポーズになっているレティシア。
あー、うちの妹は可愛いなー。
でも、単に背後に隠れて寄り添う動作で胸が当たるのはどういうことだろう。
私が同じポーズをしても……無理に押し当てようとしなければ、絶対にそうはならない。
なぜ、ごく自然な動作で胸が。
「ええまあ、挨拶のようなものですよ……」
私が思考の迷宮にはまりかけた所で、所在なげにたたずんでいた"仕立屋"が、目をそらしてぼそりと呟いた。
「そんな退廃的な挨拶は知らないわね。誤解を招く表現はやめなさい」
しかし彼女は、視線を私に向けると、胸に手を当てて力説した。
「だって! 私はただ可愛い女の子の身体を隅々まで把握したいだけ――」
「今すぐその口を閉じなさい」
レティシアが怯えたのか、私の腕に回した腕をぎゅっとした。
さらに彼女の胸がぎゅっと。
なるべく平静を装って、丁寧に説明する。
「……レティシア。仕立屋が、採寸のために客の身体を触るのは普通のことです。彼女は最高クラスの仕立屋ですわ」
"仕立屋"が胸を張り、ふふん、と満足げな笑みを浮かべる。
「でも、こう……もみゅもみゅとしっかり」
しかし妹は納得しなかったようで、手を私の腕から離し、わきわきと指を動かしてみせた。
腕に感じていた圧がなくなったことで、なんとなく寒々しさを覚える。
"仕立屋"が、また目をそらしてぼそぼそと呟いた。
「それぐらいやらなきゃ分かりませんよ……レティシア様はお胸が豊かですし」
「黙ってなさい」
――この調子で客に訴えられたらしく、この国に逃げてきたのだ。
せめて……せめて、もう少し言葉が足りていれば。
本人に強く問いただしたが「鋏に誓って変なことはしていない。私はただ、最高の服を作るために最善を尽くしただけ」と、信念を懸けた強い瞳で断言した。
そして、服の出来上がりは最高。
触り方は……多少強いような気もするのだが、職務上必要な行為と言うのは本当で、よこしまな気持ちはない、と判断した。
実際、運悪く訴えられるまでは、彼女の作る服の出来の前に、サイズ把握のための偏執的な努力は受け入れられていたのだから、と思う。
惜しいことを。
そのおかげで、彼女のような仕立屋を抱えられたのだから、それはそれで良かったのかもしれないが。
……それさえも、運命の筋書きだったのだろうか、と思う。
私が彼女と出会ったのは、私が【月光のリーベリウム】を知る前だ。
ゲームで、彼女にどういう設定があったのか……私は、知らない。
多分、主人公も知らないだろう。
でも、彼女は国を追われ、はるばるユースタシア王国まで流れ着き、私のお抱え仕立屋になった。
筋書き通りに。
「でも……」
レティシアは納得がいっていないらしく、ちら、と"仕立屋"を見る。
「……アーデルハイド様。発言の許可を」
「……次に妙なことを言えば……分かってますわね?」
頷く"仕立屋"。
私も頷いて、許可を出した。
「……レティシア様。私に妙な気持ちはないと、ヴァンデルヴァーツ家専属仕立屋として誓います。私はただ、かわ……いえ、女の子……? いや、女性の……魅力を……そう! 女性の魅力を引き出すお手伝いをしたい。そのために最善を尽くしたい。それだけなのです」
ギリギリセーフ。
常々私相手には目を輝かせ「可愛い女の子は可愛い服を着るべきだと思うんです! 私は、私の作った服で可愛い女の子の魅力を引き出したいんです!!」と力説しているので、それを綺麗に言い換えたのだろう。
その信念の強さは筋金入りで、まるでどこかから天啓を受けているようだ。
かなり怪しいが、精一杯受け入れられやすそうな言葉に言い換えている。
努力は評価する。
「そう……ですか」
職業上必要……というのは分かっていても、私だって男性に身体の隅々まで触られるのは抵抗がある。
だから女性の仕立屋も、特に貴族向けとなれば多いのだ。
気まぐれな貴族のお相手ともなればハイリスクだが、貴族は貴族。社交界は絶好の宣伝の場。ハイリターンでもある。
私を見るレティシアの肩に、軽く手を置いた。
「それにレティシア。二人とも、女同士でしょう?」
「はい……そう、ですね」
ちくりとした。
その言葉に、なぜか胸が……痛んだ。
"仕立屋"が針を残すようなヘマをするはずもなし。
それでも、そっと自分の胸をさす……と撫でた。
「でも、ちょっと、その……」
ちら、とまた"仕立屋"を見るレティシアは、さっきの衝撃が大きかったのだろう。まだ警戒心が抜けていない。
……この調子ならきっと、"裏町"でも大丈夫だったろう。
治安は悪いが、一種の秩序はある。まったくの無法地帯ではないのだ。
過去に何かあって、そのせいで強い警戒心を持っている――という可能性は、捨てきれないにせよ。
とりあえず、妹が嫌だと言うならば仕方ない。
公爵家の令嬢として相応しい服が、絶対に必要なのだ。
私は、"仕立屋"に視線を向けた。
「"仕立屋"。あなたは、目分量でも寸法を見切れますわね」
「そんな……それじゃ完成度が落ちます……」
口答えする"仕立屋"。
私は目を細めた。
そして、冷たい声を出す。
「見切れますわね?」
「は、はい……」
涙目になる"仕立屋"。
さすがに可哀想になったのか、レティシアの警戒がちょっと緩む。
「え、えっと、そのー。お姉様も、"仕立屋"さんに服を作ってもらっているんですよね」
「まあ、そうですわね」
私が今着ている服も、彼女の手によるものだ。
この、胸にヴァンデルヴァーツの紋章が縫い付けられた濃紺のジャケットとスカートの一揃いは、今となっては当主としてのトレードマークとなっている。
さらに、社交の際のドレスなども、彼女に一任している。
「それで……その、身体に触れないと、完成度、落ちるんですよね」
「はい……。着心地にも差が出るかと……見た目は……気付く人はまずいない、とは思いますが……」
絶対ではない。
貴族の中には、目が肥えている者もいる。
妹は、一つ頷いた。
「それなら……改めて、私の服をお願いします。"仕立屋"さん」
「はい、レティシア様」
よかった。シナリオ通りに進みそうだ。
「それでは、後は任せますわ」
「はい!」
"仕立屋"が、自信たっぷりに頷いた。
そして私は用が済んだので、くるりと踵を返す――
……と、服の袖が引かれた。
振り返ると、レティシアが私の服の袖をつまんでいた。
「……なんですの?」
向き直ると、彼女は躊躇いながらも私の手を取って、胸元に引き寄せる。
目測が狂ったのか、私の手が当たるが、"仕立屋"の時とは違い、気にした様子もない。
何を言うのかと思えば。
「お姉様にも……いて欲しい、です」
――「私は忙しいのです」と言って手を振り払おうか、と思った。
それが、『悪役令嬢』として、『意地悪な姉』として、正しい対応なのではないかと、思ったから。
でも。
「ダメ、ですか?」
妹に、こんな顔をされて。
ダメと言える姉が、いるだろうか?
私は、無言で手を抜いた。
そして、応接室のソファーに腰を下ろす。
「……たまには、お抱え仕立屋の仕事ぶりを直々に観察する必要がありそうですわね。"仕立屋"、万が一、出来が悪かったら……」
「必ず、ご満足いただけるものと……!」
にやりと笑う"仕立屋"。
自信はあるのだ。
……いっそもう少し自信がなければ良かったかもしれない。
自信に見合うだけの腕があるのに。
この調子で、逃げなければいけなくなるまで、自分を曲げなかったに違いない。
上手く立ち回れば、裁判沙汰にはならなかったかもしれないのに。
……国を追われることも、なかったかもしれないのに。
それから、なんだかもやもやする気持ちを抱えながら、胸を揉まれ、腰を掴まれ、背中をさすられ、脚を撫で下ろされ……と、"仕立屋"に手とメジャーを駆使して、全身余す所なく測られるレティシアを眺めていた。
不安なのか、ちらちらと私の方を見てくるレティシアに、安心させるように微笑むと、彼女は花が咲いたような笑顔になった。
意地悪を、するべきかもしれない。
もっと、彼女に嫌われるべきなのかも。
でも、イベントとイベントの間ぐらいは……と。
いずれ、嫌われるだろう。そういう運命だ。
でも、もう少しだけ。
もう少しだけ、妹の避難場所でいたい。