積み上げられた信頼
牧場に併設された宿屋に、一人の小柄な人影が扉を押し開けて入ってきた。
髪は銀色。薄汚れた上着に、キャスケット帽を目深にかぶり、顔は見えない。
ズボンの膝にも継ぎが当たり、片方など破けて肌が見えている。随分と、うらぶれた格好だ。
「すまないね。うちは一見さんはお泊めしていないんだ。それとも、誰かの紹介はあるかね?」
一人で受付カウンターに詰めていた店主は、予約が入っていなかったことと、その身なりから、丁寧な口調で『少年』にお引き取りを願おうとした。
『少年』が、くすりと笑う。
「――『一見さん』では、ないわねえ」
「……え」
帽子を取ると、月の光のように透き通る美しい銀髪が、頭の上でお団子にまとめられているのが目に飛び込んできた。
その姿は無論、店主が思ったような、薄汚れた――それこそ"裏町"にでもいそうな――少年などではありえない。
彼は目を見開いて、慌てて姿勢を正す。
「アーデルハイド様……? こ、これは失礼を!」
「いいえ。変装術が錆び付いていないことを確かめられたわ」
彼女――アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツがにこりと微笑み、店主は、内心でほっと胸をなで下ろした。
ただ帽子を取っただけなのに、さっきまでみすぼらしい少年と思った理由が分からないほどだった。
そう言えば、さっきも銀の髪が見えてはいたのだ。
それでも、服装のせいか、あるいは身にまとう雰囲気か……そういったもの全てが、裏路地の住人のように見せていた。
しかし今は、どんな格好をしていても、若くして公爵家当主を務める大貴族にしか見えなかった。
アーデルハイドは帽子をかぶり直して髪を隠すと、カウンターへとやってきて店主と向き合う。
「少し、用事があってね。貸し馬で来たから、その世話をお願いしたいの。泊まりはしないけれど、部屋と入浴の用意を。それと昼食用に、何か外で食べられるものを包んでちょうだい」
「はい、かしこまりました」
うやうやしく一礼して、泊まらない、部屋、風呂、昼食を包む……と、心の中で要点を復唱し、頭に叩き込む。
そこで、彼女は懐から小さな革袋を取り出して、その全てを自分の手のひらに出した。
財布にも使われるような品だが、財布とは少し違う、額の決まった支払いをスムーズに行うための小分け袋だろう。
自分で払う姿を見たことがない公爵家の令嬢――いや、今はその当主にしては、庶民的なところもあるのだな、と、店主は心の中でちょっと意外に思う。
しかし、出された硬貨の色と音は庶民的とはとても呼べず……どちらも、金貨のものだった。
「ところで、末の娘さん、結婚が決まったんですって?」
「あ……ええ。よくご存じで」
頷く。
「おめでとうを言わせていただくわ。年の離れた相手と聞いたのだけど、彼が結婚年齢になるまで待っていたんですってね。誠実なお相手のようですし」
「ありがとうございます。最初は反対してしまったものですが、会ってみれば歳の割にしっかりしていて……肩の荷が下りるというやつで」
彼女は、手のひらの上の金貨を、磨き抜かれた木のカウンターにぶちまけた。
「あの……これは……? ヴァンデルヴァーツ家より事前に納めて頂いている額には、まだ余裕がありますが……」
ヴァンデルヴァーツ家やユースタシア騎士団のような大口の顧客は、あらかじめまとまった料金を支払っている。そこから引き落とし、なくなれば相手の会計担当に言って、また補充してもらうのだ。
客側はいちいち会計する手間がなくなり、店側は余裕のある経営が可能になる。
ただ、やりようによっては店は不正をし放題で、客も大金を踏み倒せる。
――もちろん、不当な料金請求に泣き寝入りするような『客』は、こういった契約を結ぶような貴族や組織にはいない。
かといって踏み倒そうとすれば、王国法に反している上に、政敵に隙を見せることになり……数少ない踏み倒し事例は、例外なく家の取り潰しや、実質的な吸収という結果を招いてきた。
「ご祝儀よ」
白く細く、華奢な指が金貨を一枚つまみあげて、カウンターに置き直した。
そのままもう一枚をつまみ、先に置いた金貨に重ねる。
「それより、結婚式のドレス、張り込んだのね」
三枚目の金貨が重ねられた。
「ええ。……可愛い娘ですからね、つい」
「娘さんがうらやましいわ」
くすくすと笑い、彼女は四枚目の金貨を積む。
そう言えば、母を幼くして亡くし、父も突然の病で亡くして公爵家の当主に就任したのだった……と、彼女の経歴が店主の頭をよぎる。
幼い頃から牧場に通い、教育係のメイド……シエルさんに乗馬の手ほどきをしてもらっている様は、愛らしい妖精のようだった……と思い返した。
二人が相乗りしている姿は、本当の姉妹とさえ思えた。
――しかし、裸馬で馬上弓まで行くと、いったいどこを目指しているのかと思ったものだ。
客商売をしていると、たくさんの客に会う。
その中でも思い出深い客というのは、いるものだ。
その、かつての妖精は、五枚目の金貨をつまみあげるところだった。
「注文を出したお店、評判がいいみたいね」
「ええ。異国人ですが、いい腕の仕立屋ですよ。なんでも、どこぞの貴族家のお抱えだとか……。女性の仕立屋というのも決め手でして」
仕立屋にとって仕事だというのは当たり前に分かっているつもりだが、それでも男親としては、見知らぬ男に娘の身体を触らせるのは抵抗があった。
その女性仕立屋も触り方が強く見えて、娘も戸惑っていたが、さすがに父親が同席している場でそういった不埒な真似をするはずもなかろう、と。
それに、仮縫いの時点で、常日頃貴族を相手にして目が肥えている彼にして、間違いなく一級品だと思わせる出来だった。
五枚目の金貨が積まれる。
「純白のドレス……レースが映えて、綺麗でしょうね」
「ええ」
にこやかに頷く。
「金貨で五十枚ですって?」
「ええ……」
にこやかに頷いて。
固まった。
「……アーデルハイド、様」
ようやく喉から声を絞り出すと、彼女は六枚目の金貨を積みながら、笑った。
「なあに?」
「……ドレスの値段を……どこでお聞きなさったんで?」
それは、誰にも言っていない。
いや、ドレスのデザインからだ。
純白というのは結婚衣装の定番としても、レースをふんだんに使ったなど、誰にも言っていない。それは当日に披露すべきものだから。
まして、値段など。
価格自慢をするような低俗な輩になりたくないこともあって、誰にも言っていないのだ。
ドレスにレースが使われるのはごく普通のことで聞き流していたが、支払った額をぴたりと当てたことからも、確信があるとしか思えない。
くすくすと、彼女は笑う。
まるで妖精だ――人に仇為す方の。
末の娘のドレスを依頼した仕立屋の生国は、妖精物語で有名だ。――時に人を助け、時に人をさらう。
背中に蝶の翅の生えた、ごく小さな美しい少女のようなイメージは、妖精の一面に過ぎない。
あれは、人と違うもの。
人間とは違う理で動くいきもの。
七枚目の金貨が積まれる。
彼女は、カウンターに両肘をついて体重を預けると、指先を組んで、微笑んだ。
「ヤモリは、どこにでもいるから」
そう。確かに、どこにでもいる。
牧場にだっているし、町中でも珍しいものではない。
ユースタシアの国民は合理的という気風を持ち、ヤモリへの当たりはきつくない。虫を食べてくれるのだから有益な存在と見なしている。
ただ、嫌いな者はいるし、家の中で見かけたら追い払われるのも珍しいことではない。
この宿でも、ヤモリを嫌う客もいることから、屋内で見かけたら外に出すようにしている。
『ヤモリ』と、屋内で出会ったような気がした。
じっと、またたかぬ黒い瞳が、こちらを見つめているような。
店主が恐る恐る視線を向けると、透き通っているのに底の見えない湖のような、深い青の瞳と、視線が合う。
彼女は八枚目の金貨を指先でもてあそびながら、口を開いた。
「お願いしたいことがあるの」
「……はい。なんなりと、ご用命くださいませ」
それ以外の答えは――ない。
ヴァンデルヴァーツ家は、上客だ。
先代の当主からの付き合いだが、当人達はもちろん、従者もよく教育が行き届いていて、横柄なところもなく、金払いもいい。
今まで、一度も、理不尽を突きつけられたことはなかった。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"など、ただの口さがない者達の噂……とさえ、思っていたぐらいだった。
それが今、季節は初夏になろうというのに、背筋に寒気がする。
八枚目の金貨が、積まれる。
残る金貨は、あと、二枚。
「まずは当たり前なのだけど、他言無用でお願いするわ。……お忍びなの。分かるでしょう?」
「はい、もちろんでございます」
うやうやしく頷く。
「特に、最近よくここを利用している妹、レティシアの耳には入らないように」
「はい」
一言も聞き漏らせない。全身を耳にして、しっかりと頷いて、聞いているアピールをする。
「『ヴァンデルヴァーツ家』にも、内緒よ」
「は? ……はい、かしこまりました」
一瞬、聞き返しそうになって、慌てて取り繕った。
「今日のことは、記録にも残さないでちょうだい。料金は……ここから」
丁寧に積まれた金貨の塔が指し示された。
一日の利用料金としては、明らかに過分だ。口止め料……そして、次に控えている要求……『お願いしたいこと』を、店主はぐっと腹に力を込めて待った。
彼女は、九枚目の金貨を塔に付け加えて、口を開いた。
「スコップと、バケツを貸して欲しいの」
「……は? 失礼ながら……意味が、よく……」
スコップ。バケツ。
何の隠語だろう。
店主の困惑が伝わったのか、アーデルハイドは落ち着いた口調で補足した。
「言葉通りに受け取ってちょうだい。土を掘るスコップと、水を汲むバケツよ」
「もちろんすぐにご用意できます。牧場でございますから」
店主は受け答えしながら、失礼がないように予備の新品を卸そう、と内心で在庫を思い浮かべる。
「それで、その次は……」
十枚目の金貨を手にしていた彼女は、目をぱちりとした。
「え? それで終わりよ」
「は?」
――ちょっと、意味が分からない。
スコップ。死体でも埋めるのか。――いや、いくら口止めしているとはいえ、こんな所で借りるような馬鹿がいるものか。
そもそもバケツとはなんだ。果樹の植え付けをして水をやるとでもいうのか。
困惑を隠さない店主に向けて、それまで余裕たっぷりに振る舞っていたアーデルハイドが、ふっと自嘲気味に笑う。
「……あなたのような顔馴染みでさえ、こんな風にしないと安心できないのは……職業病、かしらね」
彼女がカウンターから身を離し、遮る物がなくなった窓からの光が、九枚の金貨が積まれて出来た塔に当たって、きらきらと光る。
「……しかし、なぜこのような額を?」
――脅しを入れて、金を握らせて。
脅しだけでも、十分だろうに。
……別に、脅しも、金さえも必要としないような、お願いごとなのに。
『アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ』は、きっと、そんな風にしかできないのだろう。
しかし、やはり額が多く感じる、と彼は内心で首をひねった。
貴族にとっては大した額ではないかもしれないが、思った以上に『お願いしたいこと』の内容が、なんというか……ささやかだった。
「……ああ、言ったでしょう」
十枚目の金貨がつまみ上げられ、そっと頂点に付け加えられて、黄金の塔が完成する。
偶然だろうが、彼女がほんの少し立ち位置を変えたことで、日差しが目に入って目を細めた。
丁度、顔のあたりが逆光で黒い影に沈む。
それでも、声で、笑ったのが分かった。
「ご祝儀だって」
――そういえば、彼女は、教育係のシエルさんと一緒に、まだ幼かった末の娘に教わりながら馬の世話をしたこともあった。
それからも、幾度となく顔を合わせていた。
先代当主から贈られた愛馬、リーリエの世話を任された末娘は張り切っていたものだ。
長女は早くに嫁ぎ、次女も実家の牧場と宿を手伝っていたのは、アーデルハイドからすればほんの少し。
店主を除けば、その末の娘が一番多く顔を合わせる、顔馴染みだったろう。
「……お心遣い、痛み入ります」
店主は、恐れではなく敬意から、うやうやしく頭を下げた。
そして崩すのが惜しいような気がしてしまう金貨の塔をそっと取り上げて、手早く金庫にしまった。
「ご案内しましょう」
カウンターを出て、先導する。
彼女は少年のような身なりで、けれど気品ある動作で後に続いた。
「スコップと、バケツでしたね。他も万事、お任せください」
「ええ」
明日は、ヴァンデルヴァーツ家の予約が入っている。預けている馬を二頭、準備しておくように……と。
さらに――第一王子や騎士団長、医師長まで、それぞれ預けている馬や、貸し馬を、と。
そうそうたる顔ぶれだ。
こちらは予約ではなく、敷地にも入らない予定とのことだが、"ユースタシア騎士団"の騎士達が周辺を固めるという通達もされている。
その日、何かが起きるのだろう。
今日のことは、その準備なのだろう。
何をするつもりかは、正直に言って、彼には皆目見当がつかなかった。
ただ、彼女がすることなら。
それが、どんなに『正しく』なかったとしても。
協力する価値があると、そう思えた。