幸せにしたい女の子
「レティシアさん。お元気ですか?」
「あ、ルイ先生! はい、元気です!」
穏やかな声で妹に話しかけてきたのは、三人いる【攻略対象】の最後の一人である、ルイだ。
ユースタシア王国の宮廷医師団にて医師長を務める彼は、国王陛下の信頼も厚く、患者からも悪い噂を聞かない好青年だ。
白を基調とし、黒のラインが入った宮廷医師団のコートに、同じカラーリングの丸帽子。胸には宮廷医師団の紋章である柊をかたどった真鍮製のバッジ。丸帽子には同じエンブレムと、医師長であることを示す猛禽の羽根飾りが刺さっている。
短くされた黒髪に、眼鏡の向こうの黒い瞳。
どこの生まれかも分からない彼は、大陸中に散らばる流浪の民、"放浪の民"出身で、この地に根ざさない彼が、宮廷医師団の中で信頼を得ていくのは、並大抵の事ではなかっただろう。
彼は妹の次に、私にも視線を向け……眼鏡の奥の瞳を細めた。
「アーデルハイド様、お久しぶりです。……その後、少しはレティシアさんへの対応を改められたので?」
開口一番、ご挨拶なことで。
どいつもこいつも、妹のことが好きすぎる。
弱者の味方との評判もある医師長様は、当然、私のような絶対強者の敵であらせられる。
「――改める?」
私は、にいっ……と口元を歪ませるように笑った。
【攻略対象】達の地位は、全て、私と同格と言ってもいい。強いて言えば現時点ではコンラートが一番弱いが、王になれば私を超える。
だが、私は"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"、現当主にして、【月光のリーベリウム】の『悪役令嬢』。
嫌われて困ることはないし、何の遠慮も要らない。
「何を、改めることがあると言うの?」
「それ、は――」
肩と肩をぶつけるように距離を詰め、がしり、と猛禽が獲物を締め付けるように、彼の肩に手を置いて力を込めた。
ぐしゃり、とコートの布地が歪む。
「他家の事情に口を出すものではないわ? ……ねえ。そうは思わないこと?」
至近距離で睨み据えられた彼は、居心地が悪そうに目をそらした。
彼も場数は踏んでいるが、悪いが私の敵としては小粒と言わざるをえない。
目をそらせば、負けだ。
背後の王子と騎士団長が助け船を出すか迷っている気配がしたが、行動が遅い。腰が定まっていない腑抜け共など、何も怖くない。
「そうですよ。お姉様はよくしてくれてますから」
のほほんとした声が、緊張を破った。
もちろん声の主は、私の愛されるべき妹だ。
まったく空気を読んでいない……のかは、分からない。
ただ、どちらにせよ、死ぬほど図太かった。
毒気を抜かれて医師長の肩から手を離すと、解放された彼が、妹に向き直る。
「……レティシアさん。あなたがそう言うのでしたら……ですが、本当に不満はないのですか?」
「ありませんよ」
即答するレティシア。
それもどうかと思う。
私は、割と頻繁に意地悪しているはず。
「大変なことは、ありますけど。でも、そんなのどこの家も、誰だって同じでしょう?」
攻略対象と悪役令嬢である私達四人は、揃って曖昧に頷いた。
第一王子、騎士団長、医師長、公爵家当主――それぞれ、うらやましいと思う者も多いだろう立場だ。
ただ、立場には責任が伴う。
権力に溺れれば、命の保証さえない。
かつての戦乱は遠く、それでも、力の論理は今も息づいている。
私達が生きているのは、そういう世界だ。
「……今は、毎日が、本当に楽しいんですよ」
すっと、全員が背筋を伸ばした。
妹は、声色を変えていない。内容も、おかしなところはない。
それなのに、四人全員が。
「信じられないぐらい、に」
彼女に幸福を贈りたい。
つらい過去を持っている――と思われる――彼女に、今の幸せを信じさせてやりたい。
それを、他の誰でもない、自分の手で。
この子を、幸せにしたい。
そういう気持ちを、きっと四人全員が抱いた。
……妹が誰を選ぶかは分からない。
誰を選んでも、選ばれなかった者も、それなりに彼女のために――ユースタシアのために――働く。
今より少しだけ、良くなった未来。
妹が笑っている、幸せな未来。
私はそれを、『もう見た』。
【月光のリーベリウム】のエンディング。
三種類あるそれぞれのハッピーエンドを、もう見た。
私はどのルートでも、使い回しの断頭台イベントでさらりと死亡が語られる程度の存在だ。
この四人の中で唯一、妹に選ばれる可能性がない。
ただ、そんな私でも、妹の幸せの礎にはなれるのだ。
ルイが、私を見据える。
今度は、目をそらすつもりはないと言いたげに。
「……アーデルハイド様。家によって事情はそれぞれでしょうが。――それでも」
そこで、言葉を切る。
コンラートとフェリクスも、無言で、しかし厳しい目で私を見た。
うむ。悪くない視線だ。
やはり人間、敵がいるぐらいがまとまる。
嫌われても困らない相手からの敵意などそよ風のようなものだが、こいつらが私亡き後の妹とユースタシア王国を支えていくのかと思えば、まあ悪くない。
三人の味方を得た妹は、しかし私の味方に回る。
「お姉様は厳しいけれど、それ以上に優しい方ですよ」
「……優しい?」
「誰のことだ?」
「…………」
王子と騎士団長が眉を寄せた。
医師長も複雑そうな表情になる。
私という人間を形容するのに似合わない言葉がいくつかあるが、『優しい』という言葉は、その筆頭ではなかろうか。
「先日も、お庭を一緒に散歩したんですよ。ベンチで寝てしまった私に肩を貸してくれて、ひざかけまで!」
嬉しそうなレティシア。
男どもが、三人揃って私を見る。
なんて居心地の悪い視線だ。
「……ひざかけはシエルですわ」
ちくしょう、罠か。
やはり起こすべきだったか。
つい、妹が可愛すぎて。
自分の肩に頭を預けるレティシアが、愛しくて。
つい。
妹が、微笑んだ。
「そういうことにしておきます、ね」
そういうことにしておく、とはどういうことだ。
あれは、そういうこと以外の何物でもない。
次に何か言えば、全力で反論してやろうと思ったのだが、妹はそれ以上は何も言わず、にこにこと笑顔を絶やさずに、じっと私を見つめる。
……なんて。
なんて、居心地の悪い視線だ。
嫌われたくない、けれど嫌われなくてはいけない相手からの信頼……に加えて、もしかしたら好意さえも含まれた、視線。
敵意も、悪意も、慣れてしまった。
敵対の仕方は分かる。敵の潰し方も。
同盟の結び方も、取引の仕方も、利益の与え方も、分かる。
だから、敵ばかりではない。味方だっている。
信頼できる相手もいる。裏切らないだろう相手も、いる。
私が築いてきたのは、そういう立場。
けれど、その『ヴァンデルヴァーツ家当主』としての私に、レティシアは何も求めない。
私は、自分と同じ青色の瞳を見ていられなくなって、目をそらした。
目をそらせば、負けだ。
敵から目をそらせば。
でも、敵じゃない、から。
……妹は、【月光のリーベリウム】の主人公だからノーカン。