親愛なるお姉様へ
アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツが不機嫌そうに立ち去る足音が、大理石の床から絨毯に差しかかって小さくなり、やがて聞こえなくなったところで、メイドキャップなしのメイド服姿のレティシアがうつむいて呟く。
「……お姉様は、私のことがお嫌いなのでしょうか」
「いや、あたしはちょっと見直したよ。……そういや、使用人にも、理不尽なことは言いなさらんね、あの人は」
恰幅の良い赤毛のベラが、メイドキャップを拾い上げて、軽くはたいてレティシアに手渡した。
「それは、どういう……?」
「正しいことを言ってる。あんたの将来が心配なんだろう。なにしろ、他のお嬢様方は、もっと若い頃から教育されてるんだから」
そして、にっと笑って、姉が消えた方を指差した。
「それにほら、クッキーはしっかり持っていったよ」
「あ……」
『こんなこと』呼ばわりしつつ、突っ返しもせず、捨てもせず、クッキーの包みは手に持っていた。
ベラが、レティシアの肩を元気づけるようにぽん、と叩く。
「……届くといいね、気持ち」
「……はい」
彼女は目を閉じて、受け取ったメイドキャップを、祈るように握りしめた。
自室に戻った私は、まず鍵を掛けたことを確認した。
そして気持ちを切り替えると、うきうきと書き物机に向かい、いそいそとラッピングをほどく。
――妹からのプレゼント!
正に心が浮き立つようとはこのこと。
部屋に戻り一人きりになるまで表情を抑制し、歩幅を一定に保つのに苦労した。
ずっと取っておきたいぐらいだが、クッキーと言っていた。
こんな安い品でこんなに喜んでどうするのかと、心の中の冷静な部分がささやくのだが、私はどうも安い女だったらしい。
……公爵家の令嬢として育ち、今では当主である身としてそれでいいのかという気もするのだが。
だからこそ、心のこもった贈り物に弱い。
私の立場で言う『心のこもった』とは、箱が二重底になっていて、金貨や意味深なメモが仕込まれていたり、そういう意味だ。
白い布に、ピンクのリボン。
高級店の重厚な箱に比べれば、なんともまあ愛らしい包み。
いつもはメイド達の間で、それらの包み紙や箱、リボンの争奪戦が開催されているのは知っているので『処分』を任せているが、これは取っておこう。
クッキーはくしゃっとした薄紙に包まれていて、その上に、小さいカードが載っていた。
メッセージは――『親愛なるお姉様へ』。
……妹は、私のどこに親愛を感じているのか。
謎の高評価に未来を不安に思いつつ、こういう細やかな気遣いが【攻略対象】を落とすのだろう、と考えることにした。
こんな意地悪な姉に対しても、優しいメッセージを添えてプレゼントしてくれるとは、なんて出来た妹だ。
机の引き出しから、『手紙入れ』を取り出す。
黒檀に精緻な彫り込みがされ、金が流された細工物のこれは、仕事用の物ではなく、私物だ。
療養中の母から貰った手紙、父が当主就任の折に渡すつもりだったという当主心得を記した手紙、一時期シエルと私の間で流行った交換お手紙……など、プライベートで、大切な手紙が入っている。
王子の当主就任祝いとかは、仕事用の方の、時期によって番号が振られた手紙入れに突っ込んだ。
私物の手紙入れの蓋をそっと外し、レティシアのメッセージカードを、一番上に置く。
『親愛なるお姉様』という言葉を脳内でレティシアの声で再生して響きを噛み締めつつ、薄紙も開いて中のクッキーを確かめた。
「……凝っていますのね」
少々手荒に扱ったので、割れたりしていないかと思ったが、大丈夫だ。
オーソドックスな丸や四角だけでなく星に……ハートまで。
ハート型に、ちょっと意味深なものを感じてしまい、笑い飛ばした。
何を考えているのか。
一口かじると、さくっ、という優しい感触と共にバターと砂糖の甘みが口の中に広がった。
「……美味しい」
オーソドックスなバタークッキーだが、それゆえに誤魔化しが効かない。
オーブンでの火の入りも計算しなければ、すぐに黒焦げになる。
バターはまだしも、精白された砂糖というかつての贅沢品が、今では当たり前に安価で市場に並んでいる。
それは、ユースタシア王国が勝ち取った『戦果』だ。
私が今これを食べられているのも、先人達が積み上げてきた繁栄の結果に他ならない。
――私は、それを引き継いだ。
より富ませ、より良くして、次代に繋げる義務がある。
義務と忠誠を。
ユースタシアに安寧を。
その言葉が何をもたらすのかといえば、こういう、ささやかな幸せだ。
外出で、疲れていたのもあるのだろう。
ポリポリとクッキーをかじるのがやめられなくて、次はどれにしようと、さっきと違う形を選ぶ手が止まらない。
紅茶やコーヒー、あるいは温めた牛乳が欲しくなったが、こんな間食に、それもさっきあんな啖呵を切った後ではメイドを呼ぶのもはばかられて、私は一人でクッキーをぱくつき続けた。
とは言っても、それほどの量はない。
ついつい早いペースで食べてしまい、とうとう最後の一枚だ。
別に残しておいたわけではないが、ハート型のそれを取り上げて、しげしげと眺める。
不意に、じわりと目の端に涙が滲んだ。
妹が焼いてくれたクッキーを、素直に喜べもしない運命が身に染みて。
ひどく悲しくなった。
その悲しみをクッキーの甘みで消そうと、急いで口の中に放り込む。
「…………にが」
素直にお礼を言えていれば、こんな味は、しなかったろうか。
さっきと、クッキーの色は変わらないのに。
焦げてもいないのに。
ひどく、苦い味がした。