『行動の自由』の使い方
午後に帰宅した私を、白い大理石の敷き詰められた玄関ホールで迎えたのは、レティシアともう一人、恰幅の良い年配で赤毛のメイドだった。
そういえば、妹に屋根裏部屋を与えた時に説明を任せたメイドは彼女だったように思う。
「お姉様、お帰りなさいませ!」
レティシアが私の帰宅を出迎えるのは、今日に始まったことではない。
私はとても嬉しいが、妹に何の得があるのか分からない。
――しかし、今日はいつもと様子が違った。
「……レティシア。なんて恰好をしていますの?」
私は、厳しい表情を作った。
にやけそうになる表情筋を抑え込むために、精神力の全てを使ったと言っても、過言ではない。
「あ、これですか? いつもの服を汚したくなくて、お借りしたんです」
シンプルな黒のワンピース。
肩などにフリルが配された、白のエプロンドレス。
頭にちょこんと乗った、白のメイドキャップ。
それは、ヴァンデルヴァーツ家が支給するメイド用の制服の一揃い――つまり、メイド服だった。
控えめながらも清楚で、若いメイド達によると、ちょっと地味。
でも、今もレティシアの後ろにいる、恰幅の良い赤毛のメイドのような年配の者にも似合う、最大公約数的なデザイン。
妹が着ると、お姉ちゃんの心臓を握り潰せるだけの破壊力がある。
「……汚れる? なぜ、そのような」
「――お姉様より、『行動の自由』を頂いたので、お姉様のために何かしたくて」
微笑むレティシアが、胸にそっと抱くようにした包みに気が付く。
白い布に、ピンクのリボンでラッピングされた、それ、は……?
「厨房を使わせてもらって、クッキーを焼いたんです。私が働いていたパン屋さんでは、お菓子も作って売っていたので、教えてもらったこともあって……」
斜め上の『自由』の使い方だった。
妹は、頭一つ高い私を、ほんの少し上目遣いになって見つめながら、クッキーの包みを差し出した。
「……受け取って、くださいますか?」
告白かな。
思わず、そう思ってしまった。
恋愛イベントとしか思えない、愛らしさ。
不安げに潤む瞳も、緊張した表情も、全部があざといまでに可愛い。
花が舞い散り、主人公ならぬ身には無縁なはずのメッセージウィンドウが浮かび上がるような幻さえ見えるほどだ。
――さすが主人公だ。交流を積み重ねて、我が国の次代を担う男どもを骨抜きにして、メロメロのデレデレにしてしまうだけはある。
……でも、私は、彼女にどう返せばいいのだろう?
こんなイベントは、知らない。
こんな。
……こんな、『仲良し姉妹』みたいな。
こんなの。
「……ええ、『贈られた馬の口の中を見るような真似はするな』と言いますからね」
あえて、贈り物を値踏みしたり、文句を言うような真似はするな、ということわざを選び、暗にそれほど喜んでいない、と当てこする。
それでも、私が包みを受け取ると、レティシアはさっきまでの不安げな表情から一転、花の咲いたような可憐な笑顔を浮かべた。
心の中では、思いがけない妹の贈り物に気分が浮き立って、今すぐダンスに誘いたいぐらいだ。
でも、それをしたらまたレティシアを振り回して、ダウンさせるだろう。
多分、私の愛は重すぎる。
「――ですが、今後、使用人の恰好で人前に出るような真似は慎むように」
貴族には、求められる品格がある。
使用人と貴族は、『違う』のだ。
いや。
『違わなくてはいけない』のだ。
本当は、そんな違いがなかったとして。
見た目で分かるように、そんな風に線を引かなければいけない。
「はい……」
レティシアがしゅんとする。
せっかくの贈り物を、相手はちっとも喜ばず、叱責までされたら、それは落ち込むだろう。
なんて嫌な女だ。処刑されるべき。
そういうのは未来の私にツケておくことにして、落ち込んだ妹を慰めようと、手を上げた。
その途端、背後に控えていた年配のメイドが、妹をかばうように前に出た。
「およしよ! こんなことぐらいで手を上げるこたぁないだろう!」
……誤解されている。
一つため息をついて、誤解を解こうと――した時、どう誤解を解くつもりなのかと、言葉に詰まった。
なんと言えばいい? ……「落ち込んでいるように見えたから、頭を撫でて慰めようとしただけですわ」……か?
ダメだろう、それは。
冷静に考えて。
それは、『悪役令嬢らしい振る舞い』ではないだろう。
一瞬前の私は、何を考えていたのか。
なぜ、手を伸ばした。
『悪役令嬢』である私に、そんな資格はないのに。
私は、上げた手を、さらに高く振り上げると、レティシアのかぶったメイドキャップをはたき落とした。
「いたっ……」
レティシアが頭を押さえる。
かつん、と大理石の床にメイドキャップを留めていたピンが当たって、小さな音を立てた。
金髪が一本、ピンに挟まっているのを見て、心がささくれる。
妹が傷付いた。――傷付けられた。
【公式イベント】でもない、こんな些細な一場面で。
たとえ髪の毛一筋だろうと。
私が、傷付けたのだ。
「あんたっ……!」
「これは、ヴァンデルヴァーツ家の問題です。しかるべきマナーも身につけずして、私がいなくなった後、どう生きていくというのですか!」
血相を変えて私の腕を掴もうとする手をはたき落とし、睨み付ける。
レティシアが、乱れた髪を押さえながら、ぽつりと呟いた。
「……お姉様が、いなくなったら?」
……あ。
ついうっかり。
「……なんですの? この家に居ても先はない。――異母とはいえ姉妹のよしみであり、貴族の義務です。どこぞの家に嫁に出すまで、私にはあなたの教育に関して責任があります」
うちの妹はどこに出しても恥ずかしくないが、可愛すぎてどこにも出したくないというこのジレンマ。
「……妹を、政略結婚の道具にするつもりかい」
「黙っていなさい、ベラ。私とあなたでは、見ているものが違います」
恰幅の良い年配で赤毛のメイド――ベラは、目を見開いた。
「あたしの名前を……?」
「知っていますわ。当家に仕えている使用人の名前ぐらい」
もちろん使用人への親しみなどではなく、素性の確かな者しか雇えない、後ろ暗いところがある家の当主としてのたしなみだ。
使用人の名前に顔――と体格と歩き方と所作と言葉遣いと家族構成――ぐらいは把握していないと、危なくて仕方ない。
私は、何か言おうとしたベラを、冷たい一睨みで黙らせた。
彼女はメイドの中でも最古参の一人だ。恰幅の良さと、人情味溢れる気っ風の良さで親しまれている。
当家が"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"という異名で呼ばれつつも、割とメイドの定着率がいいのは、彼女のような面倒見のいい先輩メイドがいるからでもあり、実は貴重な人材だ。
――信頼している、とさえ言ってもいい。少なくとも、初日、慣れぬ環境に不安だろう妹の世話を任せられる程度には。
しかし、私と彼女は見ている世界が違う。
愚痴りながらもさりげにのろけることもあるような、仲の良い職人の夫に、成人した子供達とその家族。彼女は家が近所で通いなので、見たこともある。
天気の良い昼間ということでカーテンを開け放し、大人数で食卓を囲んでいた。
みんな笑顔で、楽しそうに、笑っていた。
私が守ると決めた、ユースタシアの安寧を絵に描いたような光景。
私には、ないもの。
「貴族など、全て政略の道具です」
私も、レティシアも、ただの道具。運命の歯車の一つだ。
私が今も胸ポケットに入れている、懐中時計を動かす部品の一つのような。
それでも妹には、いい『役』が与えられている。
レティシアを見て、呟くように言う。
「……義務と、忠誠を」
妹は、応えない。
ただ、言葉もなく私を見つめていた。
「『こんなこと』より、もっと、やるべきことがあるでしょう。あなたは、ヴァンデルヴァーツの血を継いでいるのですから」
ふい、と顔をそらすと、私は踵を返して、部屋へと向かった。