シエルとの約束
シエルは私を「完璧」と言った。
令嬢としてなら、悪くないと思う。
当主としては――未知数だ。
「一度も失望したことはありません。全ての課題に、諦めることなく取り組み、常に期待を上回っていらっしゃいました」
「……照れるわよ」
褒め言葉が、さらに続けられる。
もしそうなら、彼女が優秀な教師であったからだ。
私は優秀な生徒であれただろうか?
「……だから、一つだけ。これは、私の我が儘です」
彼女が机を回り込んで、椅子に座った私の元にひざまずき、手を取って、両手で包み込んだ。
私の青い瞳よりも暗い、夜明けの直前の空のような薄灰色の瞳が、真剣な光を湛えている。
手が、ぎゅっと握り込まれた。
「……私を失望させても構わないから、自分の心に従うという選択肢を、最後まで持ち続けてください」
「……シエル?」
――自分の? 心?
聞き慣れない言葉に戸惑う。
確かに、今まで聞いたことがない教えだった。
「貴方は我が儘を言っていい。自分の望みを叶えていい。自分の心に、従っていい。貴方は、ヴァンデルヴァーツ家の当主です。……けれど、それはあくまで役職であり、立場であり、それだけが――それだけが、お嬢様の全てではないのです」
「……私、の……」
全て。
私の、全て。
それは、ヴァンデルヴァーツ家の令嬢であり、後継者であり、今日からは当主であるということ。
今日までの全ては、そのためにあったのだ。
彼女が、私をそう育てたのだ。
「お嬢様の幸せを見つけたら。どうか。どうかその時は、自らの心を、殺さないでください」
「……シエル」
それでも、私が誰よりも信じる彼女は、それを『教え損ねた』と言った。
「……私ね、したいこと、ないのよ」
……なんて、つまらない人間だろう。
何が好きだった? ――何が好きだ?
「自分がしたいこと、我が儘……そんなのは、思いつかないの」
最後に好き嫌いで物事を考えたのがいつだったか、思い出せない。
強いて言えばコンラートだ。あの王子様は嫌いだ。相性が悪い。
ただ、それとても、立場上許される程度だ。
いずれ平穏無事に代替わりして、彼が王になったら……まあ事務的な対応をしてやってもいい。向こうもそうするだろう。
必要だから。
私の心の中には、天秤がある。
片方にユースタシアの安寧を載せた時、人の命も、愛情さえも、無価値と断じる冷たい理屈が、私の心には巣くっている。
自分も、自分より大切とすら思えるシエルさえ、天秤の分銅に同じ。
それが、ヴァンデルヴァーツの当主であるということ。
「……私の、落ち度です。教え子の優秀さに甘えた……教師、失格です」
私は、くすりと笑った。
「シエルが教師失格なら、誰も教師を名乗れないわよ」
シエルが悪いのではない。私が教わり損ねたのだ。
「……シエル。私は、まだ、あなたの言っていることが分からないわ。どんな風に、自分がやりたいことができるのか、分からない」
私は、彼女が言うような出来のいい生徒では、なかったのかもしれない。
「でもね」
ただ、学ぶ意思はある。
「そうなった時、思い出すわ。私は……自分の心に従うという選択肢を持つ」
私は、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
ヴァンデルヴァーツ家の、新しい当主。
ユースタシアに安寧を。
義務と、忠誠を。
その上で、それでも。
「心の中の天秤の、片方に当主としての責任を。もう片方に……シエルとの約束を載せましょう」
私は、握られた手にそっと力を込めて握り返すと、彼女の、ずっと見ていたいような優しい薄灰色の瞳を見つめた。
「……それでいいかしら?」
「はい、お嬢様」
そう言ってシエルは、微笑んだ。
長く艶やかな黒髪は後ろでまとめられているが、それとは別に、左の前髪にヘアピンが留まっている。
銀製の細工物で、六枚の花弁がある花をかたどっている。……が、あまり高級な品ではない。
それでも、彼女はずっとそれを着けている。
私が自由になる資金を得た時に、彼女に贈った物だから。
私がいつも着けている、後ろ髪を束ねる濃紺のリボンが、彼女が贈ってくれた物であるように。
お互いに両手を離し、立ち上がる。
シエルは、私より背が高くて、すらっとしていて、出る所は出ていて、鍛えられていて……ちょっと、いいなあ、って思う。
……私はもう、成長止まったかなあ……。
シエルが、しみじみと言う。
「こんな風にお呼びするのは、最後ですかね」
「……二人きりの時は、呼んでもいいのよ?」
彼女は、やはり首を横に振った。
「けじめですから。――アーデルハイド様」
シエルの真面目な顔は、見慣れている。落ち着く、と言ってもいい。
しかし、ちょっとだけ。
物足りなく、なった。
「……さっそく我が儘を言ってもいいかしら」
「なんなりと」
「もう一回、さっきの笑顔を見せてくれる?」
「……私は今、笑っていましたか?」
シエルが、困惑顔になった。
自分の頬をぺたぺたと触る。
「それはもう自然に、素敵な笑顔を浮かべていたわよ?」
「……はあ」
彼女の困惑顔はかなり珍しく、思わずわくわくしながら畳みかけた。
「それで、笑顔は?」
「申し訳ありません。難しいようです」
「あ、そう……」
残念だ。
けれどいつかまた、見せてくれる日もあるだろう。
その時には私も、自分自身の望みを見つけているだろうか。
…………。
――いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。
過去を、夢に見ていたような気もする。
寝る前に思い返していた、シエルとの『約束』のせいだろうか。
つい、ベッドから身を起こして周りを見渡してしまうが、シエルはいない。いるはずもない。
私はもう大人だ。貴族家の、当主なのだ。
よほど寝坊でもしなければ、もうシエルは、子供の頃みたいに私を起こしに来たりしない。
それでも、私は彼女に向けて呟いた。
「……ねえ、シエル。私、したいことを見つけたの」
したいことを。
好きなものを。
――大切な人を。
私は、心に従う。
そして、運命に従う。
多分、怒られるだろう。
私はやりたいことを見つけたのに、それでも自分の心を殺しているのだから。
でも、私の妹は可愛いのだ。
私の中の天秤は、壊れてしまった。
いや、正しく機能しているのかもしれない。
私の妹の幸せと、当主としての責任のつりあいを取る選択肢は、運命のシナリオに従うことだけだったから。
だから、これは私の我が儘だ。
私が抱いた望み。私が決めた願い。
ユースタシアに安寧を。
義務と忠誠を。
その上でなお、私の妹に幸福を。
私は、それだけを胸に刻み込んで、ベッドから下りた。
私に、できることは何もないとしても。
風邪を引いている妹のそばに、いてやりたい。