幼い約束
私は、自室のベッドにいた。
今日は、疲れた。
妹が風邪を引いてしんどそうなのにはやきもきしたし、一緒にお風呂に入るのも……気疲れした。
楽しかったけど。
ふと、さわ……と、誰もいないベッドの敷き布団を撫でる。
雷に怯えた妹がベッドに飛び込んできた時のことを、思い出す。
あの時のレティシアは……ぬくかった。
人の体温を感じて寝たのは、久しぶりだ。
私が誰かと一緒に寝たのは、母とシエルぐらい。それも、ごく幼い頃の話。
――私は、貴族だから。
それも、我が家が戴く紋章はヤモリ。
我が公爵家の異名は、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"。
ヴァンデルヴァーツ家の爵位継承権一位という立場に、甘えは許されなかった。
ただ、シエルは厳しいながらも頼りになる教育係だ。
……もしも、彼女がいなければ。
それは、ぞっとするような想像だった。
ここまで来れたのは、彼女がいたからだ。
私が、当主になれたのは。
お風呂に入る前にシエルと交わした会話が思い返される。
――私は、彼女と二つ約束をした。
一回目の約束は、幼い頃。
貴族教育が始まる時、『シエルを失望させない』と、私は、私の大好きな養育係と小指を絡めて、約束したのだ。
二回目の約束は、今から四年ほど前の、当主就任の日のことだ。
父を亡くし、爵位を継承し……喪が明けた後に、屋敷にお歴々を招いて当主就任を祝った。
招いた中には、王子もいた。陛下はさすがにいらっしゃらなかったが、ユースタシア王国を支える公爵家のこと。第一王子のコンラートに祝辞を持たせ、代替わりを祝福した。
病を得て急逝した父の跡を継ぐのが、まだ十八の小娘であることを不安視する声もあった。
しかし、その声には何の価値もない。
私は、ヴァンデルヴァーツ公爵家の一人娘。長子にして、正式に認められた爵位継承権第一位。
そして何より、私にはシエルがいた。
父の代から"影"を統括する、もしかすると私以上に力ある立場である彼女が。
"影"は、一応ヴァンデルヴァーツの当主直属……ということになっているが、実際には、シエルのような長の権限は比類なきものだ。
立場上の権限もそうだが、実際に命を張る部下達が、信頼できる上司を慕うのは当然というもの。
私は次期当主としての教育を受け、父と共に職務に携わったことも、実際に命令を下したこともある。
あくまで危なくない諜報の部類だが、現場の経験もある。
それでも、私はひよっこだ。
信頼できるような実績は、なきに等しい。
私が試されるのは、これから。
ユースタシアに安寧を。それが、ヴァンデルヴァーツの果たすべき義務であり、国家に捧げた忠誠の在り方だ。
しかし、私が抱える部下達の多くは、その思想を理解しつつも、その理想だけでは動いていない。
『そう』としか、生きられなかった者達も多い。
私には、責任がある。
自分が、当主として相応しいと示し続けなければならない。
私の肩には、常に重荷がのしかかっていた。
「当主に就任されましたこと、改めておめでとうございます、お嬢様。……いえ、アーデルハイド様」
当主就任のパーティーも終わり、自室の隣の執務室で、シエルと二人きり。
重厚な執務机を挟んで、私は彼女と向かい合っていた。
「ありがとう、シエル。……二人きりの時は、呼び名は以前のままでもよくてよ?」
彼女の個人的な祝辞に、今までとは違うよそよそしさを感じ、少し寂しくなった私はそう言ってみたが、シエルは首を横に振った。
「いいえ。けじめですから。間違えても問題ですし」
「そう」
正論だ。
「アーデルハイド様。今後は当主補佐として、あらゆるサポートをお約束します。――当主としての責務を果たし、ユースタシアに安寧を。……義務と、忠誠を」
「全て、分かっているわ。シエル。当主として、改めて約束しましょう。これからも、あなたを失望させることはしないと」
それが、私の約束だ。
この日までに私が受けた最高水準の教育と……贅沢は、これからのためにある。
私は、この国に三家しかない公爵家の当主なのだから。
「……アーデルハイド様。私は、貴方の生まれた時から、お仕えして参りました」
「……ええ、そうね。本当に感謝しているわ」
「ありがとうございます。……その褒美に一つ……たった一つだけ、私的なお願いを聞いてはいただけないでしょうか」
彼女が私的な面を見せたことは、ほとんどなかった。
幼い頃はそれなりに素を見せてくれていた気もするが、七つ年上の彼女は私より――はるかに――早く大人になってしまった。
それはまあ、お互いに誰より一番近い存在だったとも思っているが……私と彼女の関係は、何よりもまず、主従だ。
その彼女が、『私的なお願い』を。
「なんでも言ってちょうだい? 内容を聞いてからになるけれど。あなたの言うことなら、可能な限り叶えたいと思うから」
「はい。……昔、約束をしましたね」
私は、頷いた。
「ええ。『あなたを失望させない』。……公爵家令嬢としては、どうだったかしら?」
幼い日の約束だ。
私はもう、『令嬢』ではない。
今日からは当主になる。
この家を背負い、シエルを含めた使用人達と、領民と、そして何よりユースタシアの未来に責任を持つ、強大な力を持つ貴族家の当主に。
「――ただの一度も、失望したことなどありません、お嬢様。……アデル様。貴方は、私の誇りです」
「……シエル」
『けじめ』を超えて、当主就任の今日まで使ってくれていた呼び方……それも、私が、両親とシエルにだけ許した愛称で呼んでくれたことに、胸が熱くなる。
「私と、もう一つだけ、約束をしてほしいのです」
「どんな?」
それはまあ、私は彼女とならどんな約束もできるけど。
「私は、お嬢様に一つだけ教えられませんでした。……大切なことを、教え損ねました」
「……あなたが? 教え損ねた?」
私は眉を寄せた。
私の貴族教育は、とうに終了している。
それはもちろん、当主としてはひよっこだが、それはこれから実践していく内に自然と身についていくものだ……と、シエル自身も言っていたのに。
「……お嬢様は、完璧すぎた」
教え損ねたという言葉に反して、彼女の口から出てきたのは、褒め言葉だった。