風邪引きさんと入浴
ユースタシア王国は、水の豊かな国だ。
国境線としても機能する火山地帯を有し、鉱物資源にも恵まれている。
それらは、我が国が強国となった理由の一つに挙げられるだろう。
広大な領土は痩せがちの土地が多く、食糧輸出国ではないが、水が豊かなこともあり、本格的な飢えとは無縁で過ごしてきた。
豊かな水と、火山地帯。
それら二つが組み合わさった結果、ユースタシアに花開いた文化――
それが、温泉だ。
特に北部の大きな街は、温泉を中心に栄えてきた。
衛生面もあるだろうが、何より温かい。ユースタシアの長く厳しい冬は、温かい水が自然と大地から湧き出るというこの不思議な現象なくして、乗り切れなかったという専門家もいるほどだ。
大陸がおおむね平和になった現在は、温泉地は観光地としても人気が高い。
他国にも、温泉がまったく存在しないということはないし、薪でお湯を湧かす公衆浴場も広まってきている。
ただ、これだけの湯量、そしてこれだけの温度を、薪だけで湧かすとなると――いくらかかるか、ぞっとする。
公衆浴場が普及しているのは、南方の国々というのも納得だ。
気温の高さと、汗を流したいという需要。冬でも氷が張らないどころか、どこかぬるんだ水。成長の早い木々による薪の安定供給。
それら三拍子揃って初めて実現する、大陸北部にはない贅沢。
しかし、北には北の、南にはない贅沢もある。
特に、個人宅に温泉があるのは、ユースタシアでも由緒正しい貴族家と豪商のみに許された贅沢だ。
温泉に関する項目が存在するために、"温泉法"の名でも知られる、ユースタシアの水源管理法によって全ての温泉は登録を義務付けられ、またそれらは公共の財産として扱われる。
ただ、ヴァンデルヴァーツ、そして他の数家には、建国初期に与えられた特権がある。
まだ、ややこしい法律がなかった頃――力こそが大陸を支配する唯一の法であり、あらゆる国家と民族が共有した根本原理だった頃の話だ。
ちなみに、新たに掘ることも可能だが、採掘者に与えられるのは、あくまで管理の優先権だ。
公衆浴場や温泉宿の経営を行う権利を行使するか、その権利を売却して利益を得ることができるに留まる。
――という、ユースタシア王国における温泉の歴史を頭の中で辿り、無心になろうとしていた。
ヴァンデルヴァーツ家の温泉は、使用人も入浴しているが、湯船自体は一つなので、今は、時間帯によって貴族、女性使用人、男性使用人と分かれている。
しかし私は、レティシアと一緒にお風呂に入ったことはなかった。
普段は一人で入浴し、広い湯船を独り占めしてのんびりしている。
それが、今は妹と一緒にいる。
時たま、シエルと一緒に入浴することもある。
もしレティシアが腹違いの妹ではなく――あるいはそうだったとして生まれた時に認知されていれば――私は一人で入浴するより、二人で入浴することの方が多かったかもしれない。
だから、何もおかしなことは、ないはずなのに。
長い銀髪を束ねてまとめ上げ、服を脱ぎ終わり、タオル一枚を当てた姿で、隣のレティシアをちら、と見る。
熱のせいかぼんやりした様子で、のろのろと寝間着を脱いで脱衣籠に入れるところだった。
……なぜ、どきどきするのか。
ぼうっとしたレティシアに、タオルを渡す。
「……前ぐらい隠しなさい、はしたない」
「あ、うん……」
浴場へのドアを開けると同時に、ドドド……と、温泉が流れ込む音が聞こえ、かすかにしていた硫黄の匂いが強くなった。
湧いた温泉は一度溜められた後、陶器の管でそれぞれの場所に流れ込んでいる。
洗い場にも回され、冬場でも、洗い場仕事でお湯を使えるのは楽でいい……と、キッチンメイド達が噂しているのを小耳に挟んだことがある。
露天風呂もあるが、今日はレティシアが風邪を引いているので、屋内浴場にしか用がない。
ヴァンデルヴァーツ家の屋敷に露天風呂があるのは、贅沢な湯殿を整えられるまでに政情が安定してもなお、建国以前から続く露天風呂を愛した、初代当主からの名残……だそうだ。
王都が発展して、人が増えた今も露天風呂を維持できるのは、広い敷地と高い壁を有するヴァンデルヴァーツ家ゆえ。
レティシアと共に、濡れても滑らないように、あえて少しだけざらつかせている石床を歩く。
屋内浴場は、打ち湯がされて温められ、湯気で煙っていた。
視界が制限されたことに、少しだけほっとする。
……私達は女同士で、姉妹で、妹は病人だ。
何を考えているのか、と自分を責めることも、しなくてすむ。
自然と、レティシアに手を差し出していた。
私は、仮にも公爵家の令嬢として育てられ、エスコートされる側の作法は修めている……と同時に、エスコートする側の作法も修めている。
こういう時は、軽く腕に掴まるようにするものだ。
そしてレティシアは、胸を押しつけるようにして寄りかかってきた。
仮にも公爵家の令嬢が、エスコートされる側の作法を修めてない。
私の腕に押し当てられた瑞々しい肌が熱を持っていて、生気のない目も熱を湛えて、私をじっと見ていた。
何を考えているのか。
私達は女同士で、姉妹で、妹は病人だ。
肌の感触と熱っぽさが色っぽい――なんて、考えること自体が失礼というもの。
「……レティシア。あなた、熱いですわよ」
「ん……」
しんどいのか、一言だけ返して頷くと、またぼんやりとした表情で私を見つめるレティシア。
私の顔など見て、いったい何が楽しいのか。
らちがあかない。
ゆっくりと促して、洗い場の椅子に座らせる。
そして、かけ流しの温泉に木桶を突っ込んでお湯を汲むと、彼女の肩からざーっとかける。
「っ……」
レティシアが身をすくませた。
「かけ湯をしたら、ゆっくり浸かりなさい」
「うん……」
自分もとりあえずざばっと湯を浴びて、レティシアを浴場に連れて行く。
そして湯船に……一人で入らせるのが不安で、私は彼女を支えながら、広々とした湯船に身を滑り込ませた。
どうしても冷えがちな足先からぴりぴりとした熱が伝わる。
「……ふう」
「はーっ……」
そして、二人して、息をついた。
肩の力を抜く。……肩に力が入っていたのだと分かる。
肩まで浸かると、じんわりとした温もりがコリをほぐしていくようだった。
私は、ほとんどいつも気を張っていて、温泉がなかったら当主は務まらないだろうと思うほど。
隣のレティシアを見ると、彼女は肩の力を抜いた他は最初に入った時のままで、私は軽く肩に手を当てて促した。
「肩まで浸かりなさい」
「はーい……」
どこか幼い様子のレティシアは新鮮だった。
しんどくて、考えることが面倒になっているのだろう。
……見方を変えれば、取り繕う余裕のない、素に近い状態のはず。
なのに。
どうしてだか。
「えへへ……」
「……何を笑ってますの」
レティシアが、お尻を浮かせて、隣にいる私との距離を詰めてきた。
この妹は。
なぜ、この広い湯船で。
私に対して、距離を詰めようとするのだ。
肩と肩が密着して、思わずじっと見てしまう。
水滴が二人の肌の間を伝って、温泉の湯に戻った。
「……こんな広いお風呂……私……一人で使ったこと、なくて」
レティシアが、ぽつ、と呟くように漏らした。
「……レティシア。あなた、公衆浴場を使ったことは?」
「……ほとんど、ない」
ふる……と首を振るレティシア。
「たかい、から」
……入浴代の相場は、銅貨で三枚程度。
公衆浴場は衛生面でも重要な公共インフラだ。多くは温泉の湯を使っているし、王国からの補助金が出ているから、他国に比べると、かなり低価格となっている。
それを彼女は、高価と言った。
「でも、ね。お風呂の掃除のお仕事とか、あって。持ち回りで、ね? 掃除前に、入らせてもらえて。だから、そんな、汚いってこと、なくて」
精一杯喋ろうとするが、熱のせいで全身が重いのだろう。すでにろれつが回っていない。
「分かりましたわ。……苦労しましたのね」
「生きてきた、だけだよ」
妹が、肩と肩をくっつけたまま、私にすがりつく。
彼女の身体が強張っていくのが分かった。
さらに、レティシアの目の端に涙が滲んで、私は慌てた。
誰だ、妹を泣かせたのは。
「だから……『ドブネズミ』なんて、言わないで……」
――私か。
ギリ……と奥歯を噛み締めて、歯を食い縛った。
"裏町"に生まれ育った彼女を蔑むための差別語としての比喩――『ドブネズミ』という呼び方。
見えざる劇作家の綴った、舞台台本。
そこに記された、妹の心を抉るための言葉。
その中から、私が選んで、私自身の意思で使った言葉。
レティシアは、平気そうな顔をしていた。
笑って流して、強いところを見せて。
――私がいつも、肩に重みを感じつつも"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主として振る舞っているように。
でも、傷付かない人間なんているものか。
罵られて。
見下されて。
それで、傷付かない人間なんて。
いるものか。
「……もう、二度と言いませんわ」
私は、彼女の肩に優しく手を置いた。
「――レティシア・フォン・"ヴァンデルヴァーツ"。あなたは、公爵家の令嬢」
そして、この物語の【主人公】。
「その立場に相応しい淑女たらんと努力しているのを、知っています」
この世界は、【月光のリーベリウム】の舞台。
「――誰が、なんと言おうとも」
私は、彼女の――これまでとこれからの――努力を、知っている。
「他の誰かに、何かを言われたら、私に言いなさい」
私は薄く笑った。
「……ヴァンデルヴァーツ家の力を、見せてやりましょう」
レティシアをいじめていいのは、私だけだ。
そんな描写は『ない』。
彼女をいじめるのは、『悪役令嬢』である私だけ。
他は、全て舞台を邪魔する雑音だ。
素人どもに、未来を変えさせない。
目標その一、【最後の舞踏会】。
目標その二、【断頭台】。
――私の妹を傷付ける存在を、私は許さない。
私自身さえ。
意地悪な姉は断頭台に行くので、問題ない。
物語の中では、全ての罪は裁かれるようになっている。
「……うん、おねえちゃん」
私の肩と接している妹の肩から、力が抜けた。
……こんなシーンは、台本には、ない。
でも、この劇は、長いから。
ほとんど丸々一年間、演じ続けなくてはならないから。
だから、ちょっとだけ。
肩の力を抜くシーンがあっても。
それは、演者の裁量の範囲内ではなかろうか。
「レティシア。……髪を洗ってあげますわ」
「え、いいの……?」
もちろんだ。
「嫌ならいいんですのよ」
「それはない。それだけはない」
妹の目に、ちょっとだけ力が戻る。
思わず少し気圧された。
「じゃあ、あの……お願いします」
「ええ」
――髪を洗っていると、妹が呟いた。
「なんか、今、すごく惜しいことをしてる気がするんだけど……頭がうまく回らなくて……」
「気のせいですわ」
何を考えているのか。