氷のような寝室
妹を、我が家に迎え入れる日が来た。
貴族籍は後でなんとかする。
まずは、彼女の――【主人公】の安全を確保する。
影から護衛はさせていたし、報告は届いていた。
レティシアは、与えられた数日で、慌ただしく、職場――妹はパン屋で下働きをしていた――や、近所の住人に挨拶をしていた。
運命のサポートがどの程度か分からないのだから、念には念を入れる必要があるだろう。
護衛がいたのかは分からないが、全てシナリオ通りに行くとも限らないのだ。
もしも万が一、【イベント】が……運命にでも頼らなければ、解決のおぼつかないような災厄が起きなければ――その時はその時だ。
しかしその時には、妹との仲は冷え切っているだろう。
ティールームで本など読んで――読む振りをして――いると、メイドの一人が声をかけてきた。
「アーデルハイド様。妹様を迎えに行ったシエルさんが、戻られました」
わざとらしく、そのページを読み終えるまで返事をしない。
そして、しおりを挟むとゆっくりと立ち上がった。
「分かりましたわ。事前に通達しておいた通りになさい」
「……はい」
既に彼女――レティシアが、異母妹である事実と、その血を分けた妹に対する私の『通達』は知れ渡っている。
使用人との仲は、シエルを除いて、良くも悪くもなかった。職場環境は貴族の家としては『当たり』の方だという自負はあるので、評判は多分、そんなに悪い方ではなかったはずだ。
でも、これからは、使用人に嫌われることだろう。
――シエルに迎えに行かせたレティシアが屋敷へやって来たのを、私はいそいそと出迎えた。
ただし、【公式ゼリフ】で。
「【荷物はそれだけ?】」
「【はい】」
荷物はボロいトランク一つ。
……それだけで、足りてしまうほどなのだ。
「【後で、全部捨てなさい】」
「【え……?】」
妹が目を見開いた。
間髪を入れずに、言葉を続ける。
「【ドブネズミのような恰好は、ヴァンデルヴァーツ家に相応しくありませんわ】」
我ながら、言い方という物があるでしょうに、と内心でため息をつく。
私は、血を分けた妹がボロい恰好をしていることなど許せない。
……『ゲームの中の私』は……もしかして素でこういう嫌味を言う意地悪令嬢だったのかもしれないが。
シエルに教育されたなら、そうはならないはずなんだけどな……?
少なくとも、シナリオにシエルの名前はない。妹と会う時に連れて行くことさえ、シナリオを変えないか怖かったぐらいだ。
そもそも、【月光のリーベリウム】に彼女はいないのかもしれない。
他のメイドからの非難がましい視線は、この際無視する。
私の味方は、シエルだけでいい。
それに何より、私には、運命の後ろ盾がある。
「【……はい】」
妹は、ゲーム通りの反応を見せた。
うつむいて、何か言いたげな雰囲気を見せ、しかしぐっとこらえ、それ以上表には出さない。
脳内で、【テキストログ】を再生する。確か、妹の心情描写はこうだ。
――【私はうつむいた。それは、貴族からしたらぼろぼろな服かもしれないけれど、私にとっては、大切な服なのに。――"裏町"の人達の優しさが詰まった、宝物なのに。】
……不甲斐ないお姉ちゃんでごめんね、という気分で一杯だ。
ちなみにゲームの妹は、メイド達と口裏を合わせ、全部捨てた振りをして、トランクごと物置部屋の隅に隠しておくしたたかさを持っている。
現実の妹が同じことをしたら、もちろん私は全力で見て見ぬ振りをするつもりだ。
シエルではなく、恰幅の良い、年配で赤毛のメイド一人を伴って、妹を部屋まで案内する。
貴族らしく力を誇示する大理石の玄関ホールに、絨毯の敷かれた廊下を通り……屋根裏に辿り着く頃には、使い込まれた板床になっている。
この辺は、ユースタシア王国全体の気風だ。――『合理的』という。
貴族家の力を誇示する玄関を飾るのは合理的。
同じく、普段使いの所にある程度気を遣うのも合理的。
しかし、物置まで飾るのは、合理的ではない。
「【この部屋……は……】」
妹が、貴族らしい豪華さのない部屋に、言葉を失う。
私は、なるべく嫌味っぽく聞こえるように気を付けながら言った。
「【"裏町"育ちにはお似合いでしょう。……何か不満でも?】」
「【いいえ、お姉様】。……お姉様と一つ屋根の下というだけで、嬉しいです」
はにかむ妹。
一瞬、普通に運命に抵抗しようかなと思った。
今すぐ抱きしめて謝って、その後、自室を明け渡し――いや、いっそ仲良し姉妹みたいに同じベッドで寝たり――
………………待て。理性。仕事しろ。
一瞬、妄想に飲み込まれて帰ってこられないところだった。危ない。
……って言うか、そんなセリフありましたかしら?
ゲームのテキストログを脳内再生するが……んん?
やはり、彼女のセリフは【「いいえ、お姉様」】のみ……。
――どうやら、ゲームとは少し違う部分もあるらしい。
「後はメイドにお聞きなさい。貴族の義務は果たしますが、私は忙しいのです」
そしてくるりと踵を返す。
私の背中に、妹が声をかけた。
「あ、お姉様。……ありがとうございました!」
ちくり、と胸が痛む。
そんなセリフは、ゲームになかった。
私だってゲームにないセリフをいくつか喋っているけれど。
罵られた方が、マシだった。
「……およしよ。あの方にそんなこと言ったって無駄さ。人間らしい感情なんて、持ってないんだよ」
一階下った辺りで、年配のメイドがそう言って慰めるのが、私の耳に届く。
ヴァンデルヴァーツの地獄耳を舐めるとは。
――人間らしい感情なんて持っていない、か。
部屋に戻ると、ドアを閉め、そのドアにもたれかかった。
濃紺のジャケットの胸ポケットから、いつもは銀鎖だけが見えている懐中時計を引っ張り出して、パチン、と蓋を開けた。
三本の針が時を刻み、歯車がせわしなく動いている。
そうだったら。
私に、人間らしい感情なんて何もなくて。
私の心が、この懐中時計のような歯車仕掛けだったら。
……そうだったら、よかった。
与えられた屋根裏部屋に入った彼女――レティシアは、確かめるように視線を巡らせ……古びたベッドに目を留めた。
「お布団……わっ、すごい豪華……?」
近づいて触れてみると、なめらかな肌触りに、沈み込むような柔らかさ。高級品を知らぬ彼女にも分かる、一級品だった。
「ああ、丁度タイミング良く客間のが古くなったから処分しろって命令が出たんでね。かっぱらったのさ。なーに。気付きやしないよ。好きなように処分していいって言われたんだ。どこも悪くなってないのにさ」
「『丁度タイミング良く』……?」
「そうだよ。ああ、それとね。何かあったら……いや、何もなくても、私達のとこに来なね。この下が私らメイドの休憩室で、誰かしらいるし、お菓子やお茶ぐらい出せるし、暖炉もある。寝る前には、あったまりにおいで。……あんたの姉さんはあの通りだし、お貴族様のいじわるは陰湿だ。でも……がんばんな。負けんじゃないよ」
「……はい」
肩に置かれた、分厚く温かい手。
メイドがいなくなってから、一人でわずかばかりの荷物を荷ほどきしていると……そのぬくもりが胸を満たしてくれるようだった。
――と思っていたが、それとは関係なしに。
そう、暖炉もない部屋なのに。
「……なんか、あったかい……ような?」
彼女は荷ほどきの手を止めて、きょろきょろと見回すが、暖炉はもちろん、熱源らしい物は何もない。
神のような観察眼を持った者でなければ、その部屋の変化に気付けないだろう。
前日に、他ならぬ当主の手によって、目立つ所を避け、耐久性を落とさないように細心の注意を払いながら、床板の節穴がキリで拡大され、階下の暖炉の熱が通りやすいようにされていた。