信頼できるひと
屋根裏部屋に戻ると、丁度シエルが部屋から出てくるところだった。
「医師長は帰られましたか」
「ええ」
頷くと、ルイ医師長の言葉が耳に蘇った。
(彼女は、あなたを慕っているのですよ)
……彼の言葉が、今も胸にとげのように刺さっている。
やはり、そう見えるのか。
見えて、しまうのか。
不甲斐ない。
シエルが少し身をかがめて、私の顔を覗き込むようにした。
「……アーデルハイド様。ご気分が優れないのですか?」
「え? いえ。そのようなことはありませんわ」
いけない。
「ならばよいのですが。レティシアお嬢様が風邪を引かれているのですから、伝染らないよう体調にはお気を付けください」
「分かってますわ、シエル」
微笑んだ。
体調を気遣ってくれる人がいるというのは、嬉しいものだ。
……レティシアには、いたのだろうか?
"裏町"で生きていた頃の彼女には、弱みを見せられて、その人のことならなんでも信じられて、頼れるような、私にとってのシエルのような誰かが――
ふと、想像する。
私が、レティシアの姉として"裏町"で共に生きていくような、そんな筋書きがあったとしたら。
……その『私』は、シエルに教え込まれた全てを持っていないはずだ。
それでも私は、レティシアのように振る舞えるだろうか?
彼女の境遇は、"裏町"ではありふれたもので、けれど、ユースタシアにおいては重いものだ。
妹には何の罪もないのに、ただあんな区画があり、母がそこの住人だったというだけで――貧しいというだけで、彼女はそんな境遇になった。
それは、私達貴族の……支配者階級の怠慢だ。
シエルの教えを受けていない私は、きっと私じゃない。
そしてレティシアもまた、辿った過去全てが今の彼女を作っていて、こんな想像は、くだらない夢想だ。
でも。
もし、シエルの教えを受けていないので、とんだポンコツなダメお姉ちゃんだろう私でも。
レティシアと、一緒にいられたなら。
断頭台がなく。
その前の【イベント】もなく。
当然、【攻略対象】である、地位の高い三人と出会うこともなく。
ただ、姉妹二人で暮らしていけたなら。
それは、どんなに――
「――アーデルハイド様?」
私だから分かる、従者としての抑制された振る舞いの中に心配を覗かせるシエルを見て、私は内心の弱さを笑った。
……情けない。
歩き通すと、決めたのだろうに。
自分で、受け入れたのだろうに。
ふざけた運命とやらが提示した未来を、【月光のリーベリウム】のシナリオを、私は守り通すと決めたのだ。
それは、妹が幸せになる未来だから。
だってそうでなければ、彼女の過去は、ただ運命に傷つけられただけになる。
「シエル。私は、妹の様子を見てきますわ」
「はい。私は厨房で、指示をして参ります」
シエルが一礼し……そして、じっと私を見た。
「……アーデルハイド様」
「なあに?」
「約束を、覚えておいでですか?」
「……ええ。あなたとの約束ですもの。忘れたことなんてありませんわ」
私は当主就任前に、彼女と一つ『約束』をした。
シエルの教育が、私を"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の後継者にした。
医師長の言う、非情な政治的判断を当たり前のものとし、陰からこの国を見張るウォールリザード。
けれど私は、私自身の望みを持っている。
貴族として生を受け、特権を享受した私には義務がある。
義務と忠誠を。それが、貴族たる者の掟だ。
それでも、今の私を突き動かす最も強い動機は、義務でも忠誠でもない。
『義務と忠誠を』。その言葉は、私自身になっている。
けれど、それだけなら私は運命を素直に受け入れてなどやらなかっただろう。
私はただ、妹を好きになってしまった。
顔を合わせたこともない、まだ何もしていない、一人の女の子を。
その彼女が辿る未来の物語を、知ってしまった。
「……それなら、よいのです。――差し出がましいことを申しました」
「いいえ。気にしないで」
シエルとの約束がなければ、きっと私はこうしていない。
私を主と立ててくれる彼女には悪い気もするが。
それでも、これが私の望み。
目標その一、【最後の舞踏会】。
目標その二、【断頭台】。
どうせ一度きりの人生なら、可愛い妹のために生きたい。
そして可愛い妹のためになら、大人しく死んでやってもいい。
私はただ、レティシアの笑顔が見たいのだ。
「ところでアーデルハイド様。本日は、レティシアお嬢様と一緒にご入浴なさってください。いつもはお一人ですが、風邪を引かれた状態で一人は不安ですので」
「え?」
風邪引きの妹とお風呂?
そんなイベントは、知らない。
……【公式シナリオ】、仕事しろ。