医師長の診察
「【はじめまして……レティシア】・フォン・ヴァンデルヴァーツ【……です】」
妹が、医師長に対して【公式ゼリフ】で応じた。
しかし、相変わらず少しだけ違い、名字を名乗る。
頭の中にある【テキストログ】を辿ると、【月光のリーベリウム】では、一貫して名前だけを名乗っていたような気もするが。
しかし、貴族としては、家名も含めて名乗るのが正式だ。
このあたりは、貴族教育の賜物と言うべきかもしれない。
今回は、いつもより安心していられるだろうか。
なにせ、この【イベント】は、医師長の診察を受けるだけなのだ。
医師長との出会いは、承認の儀に絡められた王子との出会い、そして乗馬のレッスンに絡められた騎士団長との出会いと比べれば、少し大人しい。
彼自身、好青年ではあるし、地位の高さも先の二人に負けないものではあるが、令嬢達にきゃーきゃー言われるタイプではない。
頼りないと思える時もあるが、本当にそうなら、ユースタシア王国宮廷医師団の医師長が務まるはずもない。
それにヴァンデルヴァーツの当主基準で考えるのが間違いだ。
「【額、失礼しますね】」
手を伸ばし、妹の額に手を当てて熱を確かめる医師長。
……触診を基本とするのは、"放浪の民"の流儀だ。
これから、どれだけ医療の技が進化し、それを支える道具が発達しても、人を癒やすのは人の手であるべきだと。
それは、分かっているが。
分かっているが。
「【口を開けて、舌を出して】」
言われるがままにべー、と舌を出すレティシア。
……私だって、そんな顔見たことないのに。
「【手首を出してください】」
シエルがしたように手首の脈を測る医師長。
シエルの時は少しも嫌ではなかったのに、なんか、こう。
「【心音を、聞かせてくださいね】」
黒く染められた革の医療鞄から、聴診器を取り出すルイ医師長。
まだ宮廷医師団しか使っていないような、高価な品だ。
ユースタシアの医療技術は、大陸一と名高い。
"放浪の民"出身とて、最新の医療器具も使わないわけではない。
それは、分かってはいるけど。
ルイが、寝間着の上から、レティシアの豊かな胸に聴診器を押し当てた。
……私は彼のことを信じている。彼は誠実な医師だ。
【攻略対象】の三人の中で、唯一私と不仲ではない相手でもある。
ただ、妹を診てもらうなら、上品な老婦人という言葉がぴったりな、ヴァンデルヴァーツのかかりつけ医がよかった……と思ってしまうのも、仕方のないことではなかろうか。
宮廷医師団には女医もいるし、【イベント】でなければ、わざわざ医師長を指定して呼ぶことはない。
そもそも、彼は手術の手技が神業と名高い医者で、専門は外科だ。
聴診器を、少しずつ位置を変えて当てていた彼は、少しして妹の胸から外すと……迷惑そうに振り返った。
「……あの、アーデルハイド様。医療行為ですから」
「え? ……分かってますわよ」
いけない。
これではまるで、妹のことが心配な姉ではないか。
――大人しく診察を受けているレティシアを見ていると、彼女の心情を描いた【テキストログ】が脳内で再生される。
【胸に聴診器を押し当てられて、私は思わず顔を赤くした。……風邪のせいだって思ってもらえるといいけれど。
男の人にこんな風にされたのは、初めてだ。
私の視線に気が付いたのか、彼……ルイ先生は、柔らかく微笑んだ。】
医療行為のドキドキと恋のドキドキを混同しているような気もするが、風邪を引いて心細いときに、親身になってくれた医師の好青年に淡い恋心を抱く……という筋書きだ。
そこで気が付く。
……あれ、医師長、レティシアの視線に気付いてにこりとしないな?
今度は何がイベントを邪魔しているのかと原因を探る。
と、すぐに思い至った。
……私だ。
レティシアが、私を見ている。
そもそも確かに熱のせいか顔は赤いが、あまり恥ずかしそうには見えない。
私が「診察をきちんと受ける」と、約束させたせいもあるかもしれない。
そもそも、恥ずかしくて、でも見ちゃう……! とでも言いたげな視線を向けられていないのだから、普段の医師スマイル以上の笑顔を向けられないのは、当然というもの。
……え、これ大丈夫?
あの二人は、なんだかんだ好感度がかなり高いルートへ突入したようだが。
今のレティシアは風邪でぼうっとしているし、そのいつもよりどこか切なく儚げな雰囲気もまた、妹の新しい面を見つけたみたいで、ドキドキするけれど。
――医師長の、彼女に対する好感度が上がる未来が見えない。
不安になってレティシアを見ると……妹は、力なく、けれど安心させるように、にこりと微笑んでくれた。
私が心配されて、笑いかけられて、どうする。
「【熱が高い以外の異常は……ないですね。安静にして、ゆっくり治しましょう。……僕の方から、強く言っておきます】」
ちら、と私を見る彼の瞳は冷たい。
彼にとって、貴族家の当主たる私が、腹違いとはいえ実の妹をこんな所に寝かせているのは許せないのだろう。
正義感が強く、患者のことを第一に考える誠実な男だ。
そこで私は、致命的な失態を悟った。
……彼が悪役令嬢である私を説き伏せ、治療に適した環境を整えてくれるはずだったのに、もう整っている。
ごめんなさい、ルイ医師長。
私は、心の中で三人目の【攻略対象】に謝る。
多分、あなたの見せ場を、全部潰した……。