【医師長との出会い】
屋敷の外で、馬車が止まる音が聞こえた。
シエルが、医師長を連れて戻ってきたのだろう。
少しして、ノックの後にシエルの声がした。
「アーデルハイド様。医師長を連れて参りました」
妹の方をちらりと見る。
「レティシア。お医者様が来ましたよ」
「うん……」
妹が手を伸ばす。
自然にその手を取って、半身を起こすのを手伝う。……が、はたしてこれは悪役令嬢らしい振る舞いだろうかと気になった。
……少し、忘れよう。
体調が悪いのだ。ふざけている場合ではない。
それに、ここから先は私の出番はない。
妹の診察の場に、わざわざ付きそう『悪役令嬢』などいるものか。
「レティシア。私は出ていま……」
「や……」
離れようとする私の袖が、すがりつくように、ぎゅっと掴まれた。
弱い力のそれを振り払うのは簡単なはずなのに、振り払えない。
「いてほしい……」
「な、んで」
私のような女に、いてほしいなど。
風邪を引いた時には、心細くなるが。
それなら、そばにいてほしいのは……私ではないだろう。
「お医者様にかかったことなんて、ない……から……」
はっとした。
……"裏町"に、医療が行き届いているはずもない。
町医者のような存在もいるにはいるが、闇医者と呼ぶべきかもしれない。
風邪の時はただでさえ心細くなる。
そして未知の存在となればなおさら。
妹が、私を見つめる。
熱に浮かされてぼうっと上気した顔で、上目遣い。
「……だめ? ……ですか」
駄目なはずがあろうか。
……いや、駄目では? と、我に返る。
シナリオが狂うのが、怖い。
「……アーデルハイド様?」
扉の外から、シエルのいぶかしげな声が聞こえる。
逡巡し――心を決めた。
「診察をきちんと受けること。そう約束できるなら、いてさしあげますわ」
「……うん。約束、します」
妹が頷いた。
幼さとしっかりした言葉遣いが入り混じる。
「――入りなさい」
扉が開いて、シエルと共に一人の青年が入って来た。
「【初めまして、レティシアさん】」
白地に黒の縁取りがされた、ユースタシア王国、宮廷医師団のコート。
柊と月桂樹の葉を意匠化した、小さな真鍮製のバッジもまた、宮廷医師団を示すものだ。
丸帽子にも、バッジと同じ紋章が刺繍されたワッペンが縫い付けられている。
コートと同じ白地に黒の縁取りがされた丸帽子で身長がかさあげされているが、それを抜けば私と同じぐらいで、少し小柄だ。
しかし妹と並ぶなら、お似合いの身長差かもしれない。
短くした黒髪に、丸眼鏡の向こうにある純朴そうな黒い瞳。
優しげな微笑みを口元に浮かべて、挨拶する。
「【僕は、ルイと言います。ユースタシア宮廷医師団の医師長を務めています】」
どこにでもいそうな青年に見えるが、二十歳の若さで、ユースタシアが誇る宮廷医師団のコートをまとうのを許されたばかりか――帽子に留められた茶色い猛禽の飾り羽根が示すように――医師長にまで選ばれた俊英だ。
宮廷医師団は合議制で運営されているから、医師長の地位は、平時は大きな権限があるわけではなく、名誉職に近い。
しかし、その名誉を誰もが認める医療の技に、誠実さを持つ。
名前に、街でよく見るものとは少し違う肌の色。騎士団長と同じく純粋なユースタシア人ではなく、東方の血が入っているとも、逆に西方の血だとも噂される。
真実は誰も知らない。――多分、彼自身も。
彼は、"放浪の民"出身なのだ。
国境を越えて、医療の技を、収集し、伝承し、一人でも多くの命を助けることを使命とする放浪の者達。
見込みのある者を迎え、あるいは事情のある者達を保護し、時に土地の医師として根付く。
数人から数十人の集団に分かれ、各国を巡る。――現在は、大陸の全ての国が条約を結び、国境を自由に通行税なしで通る特権を持つ。
"放浪の民"がもたらす医療の恩恵を受けられないとなれば、各国の農村は立ちゆかぬほどだから。
かつてまつろわぬ民として各国で弾圧された彼らを、ユースタシア王国の建国王が保護した過去を持ち、それが後の条約の基礎となった経緯から、この地と縁の深い集団でもある。
この国が大国として成り上がった一端に、"放浪の民"の力があったことは想像に難くない。
――くだらない怪我で、つまらない病気で、死ぬ者が減れば。
それはすなわち、国力、そして豊かさに直結する。
ヴァンデルヴァーツの薬草術の基礎にも、"放浪の民"が関わっているらしいが、日々研究の進んでいる分野でもあるし、古い歴史のことなので不明だ。
ルイ医師長は、十の頃にこの国に根を下ろしたと言う。
うさんくさい小僧と侮られ、けれどそれを誠実さと、何より腕で認めさせ、十年で医師長にまで登り詰めた努力は、並大抵ではない。
……明らかに、風邪の小娘一人のために呼ぶような相手ではないのだ。
「……アーデルハイド様。診察を始めさせて頂きますが、よろしいですか?」
「ええ」
医療に関して強大な権限を持ち、騎士団以上に、絶対不可侵。
医師団は、外部からのあらゆる横槍を受けない、国家直属の独立機関なのだ。
とはいえ、現実的には貴族の権力を無視もできないので、公爵家の当主たる私に対する彼の態度は丁寧なもの。
医療も政治だ。……全てが、政治の道具だ。
彼は、さっきまで私が座っていた丸椅子に腰かけると、私の妹と目線をしっかり合わせた。
「【改めてこんにちは、レティシアさん。ルイです。力を抜いて、リラックスしてください】」
【公式ゼリフ】と共に、診察が、始まった。