【風邪引きイベント】
――妹が、風邪を引いた。
抗えぬ運命とやらを、ひしひしと感じる。
【攻略対象】である男性キャラ、『医師長』の紹介イベントだ。
医師長を出すために主人公を病気にするという発想は、悲しくなるほど短絡的で、見えざる劇作家のセンスを疑う。
さりげなく風邪予防につとめてみたものの、妹は、風邪を引いた。
私は、悪役令嬢としての務めを果たすべく、シエル一人を伴って妹の部屋に赴いていた。
ベッドに寝ている――私の思惑通り、元客間の上等な寝具を使っている――妹が、扉が開いた音に、顔を上げた。
私は、開口一番、辛辣な言葉を叩き付ける。
「【――不甲斐ないこと。体調管理の一つも満足にできないようでは、先が思いやられますわ】」
「っく……」
妹の顔がくしゃりと歪む。
ゲームでは【…………。】だけで、彼女は一言も発しない。
その時受ける印象は、そして心に渦巻く言葉は、あくまでプレイヤーの心の内に委ねられている……といったところだろうか。
妹の口が、薄く開く。
こちらでは、何か言い返すか――と思ったら。
レティシアは、閉じた目の端に涙を浮かべ、か細い声で、呟くように謝った。
「ごめんなさい……見捨てないで……ごめんなさい……」
意地悪ノルマ終わり!
罪悪感が胸を締め付けて、心が壊れそうだった。
「――シエル」
「は」
私の後ろに影のように控えていたメイド長が、妹のそばに寄って、額に手を当て、次に細い手首を布団から出して、脈を測った。
そして、診断を下す。
「風邪だと思われます。熱は高いですが、安静にしていれば良くなるでしょう」
「そう。……一応、医師を呼びましょうか」
さりげなく話を持っていこうとする。
なるべく、さりげなく。
……さりげなく?
「はい。それでは手配を――」
「王宮へ連絡を。医師長を呼びなさい」
「……街中に、ヴァンデルヴァーツのかかりつけ医もおりますが?」
「命令です。……王宮へ連絡を。医師長を呼びなさい」
さりげなくとか、無理だった。
わざわざ王宮に行って、医師長を呼ぶ理由がないのよねえ……。
せめて、王宮で立ちくらみでも起こせばいいものを。
ゲーム知識がなく、無理にイベントを起こさなければならないという使命感がなければ、私は普通にシエルに任せていただろう。
暖炉のある部屋をあてがっていれば、どうだったかは気になるところだ。
けれど、大筋は動かせない。動かしたくない。
せめてもの抵抗にと、栄養のある食事と、予防効果のある薬草飴やらハーブティーやら薬草酒やらを与えてみたが、妹はゲームの筋書き通りに風邪を引いた。
寝具はゲームより上等なはずだが、それも助けにはならなかったらしい。
「お姉ちゃ……さま。いい、です。私なんかの……ために、そんな……」
「決定事項です。痛くもない腹を探られたくはありませんし、ね」
もうちょっとそれっぽい理由付けと、もっともらしい公式ゼリフが欲しい。
しかしそんなサポート体制を、クソ運命と見えざる劇作家に期待していられないので、とりあえずそれっぽい理由を口にする。
「で、も……」
「――いつから私に口答えできるほど偉くなったのかしら?」
妹の反論を、悪役令嬢らしく強引に封じる。
「あなたは大人しく寝ていなさい」
ベッドサイドに歩み寄り、頭を叩く。――実際は髪だけだが。
ついでに、指先で軽く髪を撫でた。
「水差しに水は……あるわね。シエル。王宮への使者を出したら、体調が悪くても飲みやすい、栄養のある飲み物を用意して」
「はい」
シエルが頷く。
「――レティシア。トイレは? 食欲は?」
「え……あの……トイレは、まだ、いいです。食欲は……ない……」
「そう。じゃあ、今は寝ていなさい。――それでは、シエル。行きなさい」
彼女の髪から、手を離した。
踵を返し、妹に背を向ける。
「後でメイドをよこし――」
妹の手が、私の手に追いすがり、服の袖を掴んだ。
「……なんの真似ですの?」
振り返って、冷たい目で見下ろしながら、意図を問う。
「おねえちゃんに、いてほしい……」
一瞬……色んな返事が、脳裏をよぎる。
脳内の競馬場で、騎手達が馬にまたがってレースを始めた。
まず「分かったわ」とシンプルに頷くパターンが先頭に立つ。
次に「お姉ちゃんが付いていてあげるからね!」が有力候補に躍り出た。
後は「お姉ちゃんが添い寝してあげようか?」あたりが虎視眈々と隙を窺う。
……でも、そのどれもが、きっと運命を変えてしまう。
熱に浮かされて、ぼんやりと焦点の合わない目で、それでも私を見上げるレティシアは、雛鳥に似ていた。
……幼い頃、巣から落ちた雛鳥を、育てたことがある。
いや、育てたとは言えない。……ほんの数日、寿命を延ばしただけだった。
巣も、親鳥も、何もかもなくした雛鳥が人の手で育つ確率は、とても低い。
――私は、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
【月光のリーベリウム】における、主人公をいじめ抜く、悪役令嬢だ。
だから、私は袖を掴む手を乱暴に振り払った。
「っ……」
妹の目がきゅっと閉じられ、顔をそむけた。
へたっ、と力なく腕がベッドに戻る。
そして、私は妹に背を向けて、言い放った。
「――私には、当主としてやるべきことがあります」
そう言いながら、私は、部屋の隅にあった丸椅子をベッドサイドに運ぶ。
「……アーデルハイド様?」
「シエル。行きなさい。……それと、今日は私の代わりを務めなさい。判断しかねる用件のみ、回しなさい」
そして私は丸椅子にどかっと座り込んだ。
「私は、妹を監視しています」
「……え」
妹が目を見開いて、私を見つめる。
「はい、アーデルハイド様」
シエルが、恭しく頭を下げた。
「それでは、私はこれで。後をお任せします」
「ええ、行きなさい」
シエルに頷いて見せる。
彼女には、内心、頭が上がらない。
シエルが退室してから数秒後、私は投げ出されたままだった手を取った。
「冷えますわよ」
その手を布団に押し込む。
「……お姉ちゃん……」
「そんな呼び名を許すのは、寝込んでいる間だけですわよ。治ったら、厳しくいきますからね」
既に甘々の対応だが、やむをえまい。
……【公式イベント】とて、安心などできないのだ。私には、妹の……主人公の体調を、万全に保つ義務がある。
運命の大筋には従ってやるが、ガバガバの台本を渡されているのだ。
それはまあ、いちいち何気ない日常の会話を全部描写されても、尺稼ぎにしかならないだろうが。
これぐらいは演者の裁量の範囲内だろう。
「……寝られそうなら、少しでも眠りなさい」
「……うん」
彼女は、高熱に苦しそうにしながらも、口元を緩めてはにかんだ。
「ありがとう、お姉ちゃん……」
そんなことを言って、目を閉じる妹があんまりにも健気で、思わず添い寝してやりたい気持ちになった。
でも、それはさすがに演者の裁量の範囲外だろう。