「おはようございます」
雷雨の夜が明けた。
私は、いつもの恰好で窓際の椅子に座っている。
丸テーブルを挟んで、品のいい椅子が向かい合わせで置かれているが、私の向かいの椅子は今は座る者がなく、空っぽだ。
雷雲は遠く去り、分厚く重い冬用のカーテンが開けられた窓の、レースのカーテン越しに外を見ると、寒々しくも輝くような青空が広がっていた。
この席からは、天気さえ良ければ、朝から馬場を歩く馬なども見られるのだが、今日は昨夜の雨のせいで、馬場の状態が悪い。
天蓋ベッドの方から、気配がした。
ちらりと視線をやると、半身を起こしたレティシアが、きょろきょろと見回して、呟いた。
「あれ……おねえちゃん……?」
「ようやく起きましたの? もう日は高いですわよ」
そろそろ朝食なので、妹を起こそうかと思っていたが、自分で起きてくれると楽でいい。
しかしそういうことは言わず、ほんのりといやみったらしく言う。
愛情は、積み重ねが大事だ。
ならば、意地悪も同じはず。
「おはよう、お姉ちゃ……」
「『お姉様』と呼びなさい」
私の言葉に、妹が頷いた。
「はい、お姉様。……私……かみな、り」
ぶるるっ、と震えるレティシア。
自分の言葉で、昨夜の恐怖を呼び覚ましてしまったのだろう。
「……昨日……お姉様を抱き枕にして寝たような……」
「何を馬鹿なことを言ってますの? 夢でも見たんじゃありませんこと?」
妹は首を捻りながら、自分の両手に視線を落とす。
「……いや、夢じゃない。私の手が覚えてる……」
わきわきと両手の指を動かすレティシア。
そして顔が上げられ、青い瞳が、じっと私を見つめる。
「それに、お姉様が抱きしめてくれた気がします……」
「……何を馬鹿なことを」
内心、冷や汗が出る。
本当に身体が覚えているのだろうか。
起きている時にもちょっと抱きしめた気もするが、あれはノーカン。
昨日飲ませた睡眠薬は、入眠前の記憶が曖昧になる効果があるはず……と、ヴァンデルヴァーツ特製の薬を信じることにした。
もちろん、薬に対する耐性を持っている可能性はある。
……しかし、その耐性を持った上で、さらに私に起きていると悟らせないような特殊技能を持っていると仮定するのは、さすがに非現実的ではないか。
レティシアは、【月光のリーベリウム】の主人公だ。
けれど彼女は、普通の女の子として――むしろ、その『普通さ』こそを武器に、この貴族社会を歩み通して見せる。
素朴さ、純真さ。――まっすぐさ。
私達貴族が、いつしかなくしてしまうもの。
レティシアが、懸命にそれを守ろうとするもの。
……私には、ないものだ。
私は冷たい声色を作り、素っ気なく言い捨てた。
「夢でも見たんでしょう。顔でも洗ってらっしゃい」
「……そうですよね」
妹が、力なく微笑む。
その笑顔に力を取り戻してあげたくてなって、そのためには、なんでもしてあげたくなるが、いけない。罠だ。
――それでいい。こうあるべきだ。
レティシアは、自分が昨晩、ベッドに上がる前に脱ぎ捨てて――私が整えておいた――スリッパを見つけると、ベッドから飛び降りるように履いて、洗面所へと消える。
うちの妹は朝から元気だなあ。
もう見えないその背中の、かすかな残像をぼんやりと見ていると、すぐに本人が勢いよく扉を開けて出てきた。
私の言ったとおり、顔を洗って、さっぱりしている。
そして私の元に駆け寄ってきた。
「改めて、おはようございます、お姉様!」
……さっきの元気のない顔は、なんだったのか。
しかし、そういう顔の方がレティシアらしい。
「……ええ、おはよう」
挨拶を返すと、にこっとしてくれるレティシア。
あまりの可愛さに、うっかり籠絡されるところだった。
つん、と視線を顔ごとそらして、窓の外に向ける。
妹が、私の前の席に座り、私に視線を向ける。
窓の外を見ればいいのに、なぜ私を見るのか。
……ふと、王子と騎士団長相手に過去を語る時に見せた表情が脳裏をよぎった。
それもまた、彼女の一面だ。
陰のない、ただ純真なだけの少女なら、これからの道を歩み通せないだろう。
彼女は『知っている』。
この国の底辺を。
貧困が選択肢を狭め、人間性を奪うことを、身に刻むようにして。
そして、彼女はこれから知る。
この国の上流を。
富もまた、それを持つ者の人間性を保証しないことを。
恋愛物語の中で、自らの立ち位置の特異さを、実感として知っていく。
どちらに傾いてもいけない。
彼女は"裏町"に生まれ、"貴族"として育つ。
私は、貴族としての教育を与える。
そして、貴族が背負う闇を教える。
貴族という立場が人間性を保証しないことを、意地悪という形で、誰よりも身をもって教える反面教師。
私は貴族制度の支持者だ。
……しかし、貴族として生まれ育ったからこそ、貴族という立場に、まして個人に、幻想は抱いていない。
私達貴族は、高貴だから価値があるのではない。
担うべき役割を担い、果たすべき義務を果たしている間だけ、私達貴族は、存在を許される。
戦乱の果てに得た安定だ。
しかし、その安定は絶対ではない。
ほんの三年前のこと。
ユースタシア王国と国境を接する、ルインズ公国という小国があった。
血を流して『貴族を打倒』し、ルインズ共和国を名乗って『独立』した。
……国家運営の知識も、まして国防の勘所も分からずに国を荒れさせ、周辺諸国に切り取られた。
我がユースタシアも、取り皿からパイを取った。
"ユースタシア騎士団"が、『紛争調停』のために出向いた。
――どんな価値が、あったと言うのか。
周辺諸国に認められた王家も、その王家に忠誠を誓う、小さいながらも手出しすれば火傷する上等な騎士団も捨てて。
田畑を荒らし、鉱山を停止し、交易を滞らせ――民を飢えさせてまで、貴族を打倒した反乱――『革命』に、どれほどの価値が。
ほとんどの民は喜ばなかったし、すぐに富は集中し始めた。
王家を自分達の富の簒奪者呼ばわりした、『簒奪者』達の元に。
貴族制度の成り立ちを、繰り返すように。
ユースタシア騎士団は、その国の民から『圧制者から解放してくれた英雄達』と呼ばれた。
ヴァンデルヴァーツは、ちょっと噂の方向性を煽っただけ。
そして、周辺諸国から政略結婚を通じて残っていた『王家の血』を集め、『正統な王家』を蘇らせた。
歓喜をもって迎えられたものだ。
――食糧支援を伴った、市場の再開と一緒に発表されたから。
もちろんユースタシア王国は、人道的な観点から紛争を調停し、食糧を提供し、産業の復興を支援している。
そこに偽りはない。
ただちょっと、富の一部が我が国に流れるだけ。
他の国にも。
新たな王家とは、つまり周辺諸国の息のかかった傀儡政権だ。
百年もすれば国家として真に独立を果たすかもしれないが、それまでは周辺諸国による分割統治に等しい。
それでも、私の信念に照らし合わせれば、『空白地帯』を巡って戦争が起きるよりはマシなのだ。
大陸地図に火が燃え移れば、その火事は我らがユースタシアにも及ぶだろう。
実際に出動し……少数ながら部下を亡くし、実際には何があったのかも理解している騎士団長が私に含む物があるのは……まあ仕方ない。
悪く言えば単純でガサツな男だが、けっして馬鹿ではない。
それでも、私は私の仕事をしただけだ。
ユースタシアに安寧を。
それが、ヴァンデルヴァーツの仕事。
いずれ歴史は繰り返すとしても、せめて私が目を開いていられる内は。
我が家の紋章は、まぶたを持たず、またたかぬ目を持つヤモリなのだから。
私は、じっとレティシアを見た。
「……お姉様?」
「義務と忠誠を。……励みなさい。ユースタシアの貴族として。ヴァンデルヴァーツの、一員として」
彼女は、この家の血塗られた歴史を継がずともよい。
レティシアは、彼女のやり方で道を押し通していい。
ただ、蓄えた財産も、広大な領土も、大陸中が恐れ羨みつつも実態を知らぬ"影"達と、その情報網も、無駄にはならない。
「――はい、お姉様。義務と忠誠を!」
相変わらず彼女の『義務と忠誠を』は、明るい。
これは、兵役に貢納――各種の義務を担う代わりに、領土を認められ、徴税権を得るという王家と貴族との関係を端的に表した言葉だ。
貴族としての義務。国家への忠誠。
彼女はまだ、その重みを理解していない。
それでも、それでいい。
……私は、妹が言う『義務と忠誠を』の響きが好きなのだ。
私亡き後のユースタシアは、今よりもっといい国になる。
そんな、気がして。