雷の夜
妹の、声が聞こえた。
「お姉様ぁ……」
ぱっ、と目が覚めた。
目を閉じたまま、さっと意識を巡らせる。
気配は、妹一人分。
それだけを確認すると、目を開けて、身体を起こす。
妹が、ほっとしたように息をついた。
「……そっちに行ってもいい? ……ですか」
しかし、この様子はどうしたことだ。
――涙声で、怯えた声。
レティシアの声色が、私の警戒心を一瞬で最大限まで引き上げて、叩き起こしたのだ。
熾火になった暖炉の火でも、妹の様子がおかしいことは分かった。
部屋は暖かい。毛布を肩にかけ、枕を抱きしめ、それでも震えている――震えの原因は、寒さとは違うらしい。
声から分かることは一つ。――何かに、怯えている。
雨足は強くなっていた。
ザーッ……と間断なく降り注ぐ雨に、雨どいも機能しきっていないらしく、ぼたぼたと屋根からこぼれ落ちて地面に跳ねる水音が聞こえる。
そして、ゴロゴロ……と雷の前触れが鳴り、妹の怯えが強まり、そわそわと辺りを見回す。
彼女がぎゅっと目をつぶると、その瞬間に、轟音が鳴り響いた。
「っ! ッ――……!」
かなり近い所に、雷が落ちたらしい。
妹が、声にならない悲鳴を上げる。
「……か、雷はダメで。わ、私。怖いものなんて二つしかないんですけ……ひっ」
また、ゴロゴロ……という、雷雲が力を解放しようとしている音が聞こえ、妹が肩を震わせた。
そして、スリッパを脱ぎ捨てて、ベッドの上の私に、枕を間に挟むようにして抱きついてきた。
「……!」
また轟音が鳴り響き、妹が私の身体を強く抱きしめる。
これが演技なら今すぐヴァンデルヴァーツの"影"になれる、というぐらいの本気で怯えていた。
私は、彼女の肩を掴む。
「あ、あの。すみませ……でも、今、今だけでも」
「待ってなさい」
「お姉様……?」
私は立ち上がると、スリッパに足を通し、ベッドサイドから少し離れた所に置かれた水差しの元へ向かった。
ガラスのコップに水を注ぐ。
さらに、足下の手荷物から携帯している薬を取り出すと、紙製の薬包を解いて、さらさらとコップに粉薬を入れる。
コップを手の中でくるくると回して、薬を水に溶け込ませた。
再びゴロゴロという音が鳴り、ほとんど間を置かずに、腹に響く音を立てて雷が落ちた。
雷雲は、真上に来ているらしい。
「っ……お姉ちゃん……」
両耳に手のひらを当てて塞ぎ、身をすくめ、涙声で私を呼ぶレティシアの元に歩み寄った。
今だけは、その呼び方も許そう。
「……これを飲みなさい」
「は、はい……」
両耳から手を離してコップを受け取ると、何の疑いも抱かずに中身を飲み干すレティシア。
ベッドサイドに空になったコップを置くと、彼女の肩を軽く叩く。
「布団に入って、寝てしまいなさい」
「は、はい……」
言われた通りに、彼女は枕を整えて、布団に入ると私を見上げた。
「お姉ちゃん、は……」
「寝ますわよ、私も」
隣に入ると、妹がじっと私の顔を見つめてきた。
顔が近い。
「あの……お姉ちゃん。抱きしめてて、いい?」
「……ええ。雷が止むまで」
何が怖いかは、人それぞれだ。
私が、この子の幸福な未来を邪魔するのが怖いように……この子にも、怖いものがある。
屋敷やここは雷対策もされているはずだが、"裏町"ともなれば……万全ではなかったのだろう。
ゴロゴロと、何度目かの雷の音が聞こえる。
おずおずと、遠慮がちに身を寄せて抱きしめてくる妹の頭を抱いて、自分の胸に引き寄せた。
「ひゃっ……!?」
「目を閉じて。この部屋は安全ですし、すぐに雷雲は行ってしまいますわ」
そして雷鳴が轟いたが、今度はレティシアの怯えはさほどではなかった。
言った通り、雷雲は少しずつ離れて行っているらしく、音の間隔が大きくなったし、落ちた音も少し遠い。
窓を叩く風はそれほどではないが、上空はかなり風が強いようだった。
「――怖いものは何もありませんわ。運命は全て、あなたの味方なのだから」
運命に愛されている……と言うには、彼女の運命は数奇なもの。
けれど、幸せになる。
物語の主人公として。
また、ゴロゴロという音が鳴った。
「耳を塞いであげます。そのまま、寝てしまいなさい……」
そっと、彼女の耳に手を当てて塞ぐ。
「は、い……」
胸元にかかる熱い吐息が、ゆっくりと落ち着いていく。
そうしていると、強張っていた妹の身体が緩み始め……ふっと力が抜けた。
そして、小さな寝息を立て始める。
ヴァンデルヴァーツ家は、薬学にも秀でている。
薬は薬でも、主に毒薬の分野だが……毒にも薬にもならないものより、毒の方がよほど頼りになる。
今レティシアに飲ませたのは、軽い睡眠薬だ。
あまり危ないのは持ってきていないが、いざという時のために、いくつか薬は常備している。
さすがヴァンデルヴァーツの睡眠薬。効きがいい。
完全に寝たのを確かめて、最後に一度だけ、ぎゅっと抱きしめた。
こんな真似は、起きている時には、許されないから。
本当は、使用人室にでも追い払って、シエルに慰めさせるのが、『悪役令嬢らしい』のかもしれないが。
シエルの睡眠時間を奪うのもなんだし、妹がシエルに惚れても困る。
それに、一度だけでも、こうしたかった。
そっと妹の身体を離すと、寝やすいように姿勢を軽く整える。
短くされた金髪に、静かに指を差し込んだ。
暖炉の熾火が、私の銀髪とは対照的な、太陽の光を束ねたような美しさを、ぼんやりと浮かび上がらせる。
最後に一度だけ、髪を撫でた。
やっぱり、起きている時にはできないから。
「……おやすみなさい、レティシア」
言いたかったのに、言えなかったことも、今なら言える。
……寝ている間にしか言えないような、ダメなおねえちゃんだけど。
私の可愛い妹だ。
運命が定めた、この世界の【主人公】。
――もう、十分に苦労したろうに。
私が彼女と共に歩む時間は、ほんの僅か。
――これから、もっと苦労する。
たった一人の肉親である姉は、彼女の愛情を解さない、高慢ちきなお嬢様だ。
しかし、何の見返りも求めない主人公は、腹違いの姉の意地悪を受けながらも、折れず、歪まず、『貴族らしく』しかし『庶民の視点を忘れずに』成長していく。
それは、真の貴族だ。
理想の……現実にはいないような、高潔な存在だ。
――運命は、十六の女の子にそんなものを求めるのか。
もっと幼い頃から、親を亡くし、一人で"裏町"で苦労したらしい彼女に、まだ、これ以上の重荷を背負わせようというのか。
ごうっ……と胸に湧き上がる、燃えるような怒りが、ぶつける先もないままに、燃料をなくして消える。
――私も、運命に荷担する一人。
「お姉……ちゃ……」
びくりとしたが、むにゃむにゃとその後の言葉は口の中へ消えて、ほっと息をついた。
しかし、せっかく寝やすい体勢にしたのに、ごろんと寝返りを打ちながら、私に抱きついてきた。
……もしかして起きてる? と、頬に触れて確かめてみるが、反応はない。
寝ようとするが、抱きついてくる妹の体温や、柔らかさとか、色々と気になって上手く眠れない。
睡眠の途中で、半ば強制的に自分を覚醒させたのもある。
……私も睡眠薬、飲もうかな。
でも、寝ている時にレティシアが隣にいるなんて、滅多にない――本来はあってはいけない――ことだ。
明日は、絶対に妹より早く起きなくてはいけない。
だから、薬には頼らずに。
そう決めて、開き直って、抱きついてくるレティシアの背に手を回して抱き枕のようにすると。
そのぬくもりと柔らかさが、いつの間にか私を、もう一度眠りに引きずり込んでいった。