「おやすみなさい」
乗馬のレッスンのために郊外の牧場に来た一日目は、無事に終わった。
レティシアは、とりあえず一人で馬に乗れるぐらいには上達したし、騎士団長との【イベント】も発生させた。……ちょっと違う方向性になった気もするが。
夕食を終え、一人ずつ入浴を済ませ……夜になった。
複数のランプが灯り、部屋を柔らかく照らしている。
私とレティシアは、張り詰めた空気の中で、対峙していた。
「ベッドは一つ……後は分かりますね? お姉様」
「分かりませんわ」
ゆったりとした寝間着に着替えた妹の姿を見たのは、実は初めて。
ユースタシアでは一般的なタイプなので私も同じデザインだが、主に胸のサイズのせいで、とてもお揃いには見えない。
お風呂上がりのほんのり上気した肌の色っぽさに加えて、私へ向けられる笑顔の愛らしさと来たら……これを見たらどんな殿方も獣になるだろうというほど。
私は耐えた。
「お姉様、一緒に寝ましょう!」
「…………」
ちらりと、天蓋ベッドを見る。
自室の物と、あまり変わらないサイズ。
――二人部屋なのだから、私とレティシアの二人が寝るのに何の問題もない。
ご丁寧に、枕も二つある。
ごくごく幼い頃は、シエルが添い寝してくれたこともあった……と、ささやかな思い出が脳裏に蘇る。
七つ年上のシエルもまだ年若い少女で、子育ての経験などなかったろうに。
それでも懸命に、養育係兼教育係としての役目を果たしてくれた彼女には頭が上がらない。
その後成長し、さらに私が当主となった今では、常に主人を立ててくれる彼女は、メイドの鑑だ。
――そしてメイドらしく、「ご用があればお呼びください」と言って、隣室の使用人部屋に下がっている。
思わず、視界の端にある呼び鈴の紐を意識してしまった。
……心が弱い。
なんと泣きつくつもりだ?
――「妹が可愛すぎて、運命を狂わせてもいいから抱きしめて寝たくなるのを、どうにかして」?
……頭の可哀想な女を見る目で見られるだろう。あらゆる意味で。
それは、断頭台で首を落とされるより嫌だった。
まず、【月光のリーベリウム】の話をどう信じて貰えばいいのか。
……いや、簡単だ。一つ二つ未来を予言してみせればいい。
シエルなら、それで私を信じてくれるだろうと、信じている。
彼女は、運命を変えようとするだろう。
……私も考えなかったと言えば嘘になる。
特に、妹が『お姉ちゃん』というものに、過大な幻想を抱いているらしいことを察している今では、より強く。
運命を変えて、仲良し姉妹として【月光のリーベリウム】の物語を終わらせられないものかと。
けれど、私は定められた道を歩んできただけ。
私の前には、常に解決できる障害しかなかった。
私は、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主として育てられ、その力を振るうための道具として生きてきた。――そんな生き方しか、知らないのだ。
そんな私に、何ができるだろう?
まだ、筋書き通りに話は進んでいる。
そういうのは、得意だ。
定められた通りに、望まれる通りに、『正しいこと』をする。
そう育てられ、そう生きてきた。
これからも、そうする。
――生き方を定めるものが、家名から運命になったというだけ。
妹に必要なのは、私ではない。
改めて、部屋にあるソファーを見る。
布張りだがクッションはふかふかだし、大きい。……まあ、妹を寝かせるのに合格点をやってもいい。
ベッドには余裕があるにも関わらず、妹だけをソファーに寝かせる……意地悪な腹違いの姉らしいのではないか。
こういう【公式イベント】にない『いじわる』は、運命に干渉しないかと怖いが、妹の要望通り添い寝するのと、どちらが『悪役令嬢らしい』かなど明白。
腹をくくると、私は断固として宣言した。
「……あなたはソファーで寝なさい」
「そんな……」
妹が愕然とした顔になる。
「――当主としての、命令です」
内心で自嘲する。
ヴァンデルヴァーツの当主命令も、安くなったものだ。
そんなものに頼らねば、妹のささやかな願い一つさえ断れない。
レティシアは、うつむきながらも、私の言いつけに従った。
「……はい」
私は、ベッドから毛布を抜いて、彼女に放った。
「ほら」
「え?」
それを反射的に受け止めたレティシアに、さらに枕も一つ放り投げる。
「わぷ」
軽い枕だからと少し強めに投げたのが悪かったか、妹は顔面で受け止めた。
ずるずると落ちる枕を、差し出した腕で受け止めるレティシア。
その顔は、枕が当たったせいか、ほんのりと赤い。
「……お姉様。これは?」
「風邪など引いたら承知しませんわよ」
「あ、はい……」
頷く妹。
「暖炉に薪を足しておきなさい」
「はい……」
妹が、枕をぎゅっと抱きしめた。
……あー、うちの妹は健気だなあ。
道端に咲く可憐な花を、何の意味もなく踏みつけにして、さらに踏み躙るような意地悪にも負けない、いい娘だ。
そんな女の子は、幸せになるべきだ。
ランプの灯を全て消してベッドに上がると、言いつけ通り、暖炉の火に薪を足し終わった妹が、口を開いた。
「お姉様」
……ぐっと歯を食い縛る。
立場が弱い妹とて、嫌味や、恨み言を言うぐらいの権利はある。
そして私には、それを甘んじて受ける義務も。
「おやすみなさい」
なのに。
妹の口から出るのは、この期に及んで、そんな他愛もない挨拶だった。
広いベッドが、いつになく寒々しくて。
貴族向けの宿泊施設に相応しい、枕の柔らかさも、シーツのなめらかさも、布団の温かさも、さっきのレティシアが言ってくれた、おやすみの挨拶には及ばない。
そして、そんな妹に対して、嫌味や恨み言が来ると思った、薄汚れた自分の性根があまりにも情けなくて、目尻に涙が滲んだ。
ぐっと枕に顔を押しつけて、歯を食い縛る。
涙はそれ以上流れなかったが、胸の内を渦巻くもやもやは消えない。消えるはずもない。
それを消すことはできない。してはいけない。
ざらざらした気持ちをもてあそぶ内に……妹に、何かを言わなくてはいけない気がした。
そうだ。せめて……おやすみなさいを言うぐらいは。
どんなに、『仲が悪くても』。
私とレティシアは、血の繋がった姉妹なのだから。
私は身体を起こした。
「レティシア?」
返事はない。
奮い起こした勇気が弱々しくなっていくのを感じながら、じっと返事を待つ。
……寝息が聞こえた。
暖炉のそばにあるソファーで、毛布にくるまって寝ている妹は、安らかな寝顔で幸せそうに寝ていた。
……寝付きがいい。
もう、自分が何を言おうとしていたのかも分からずに、私は身体を投げ出すようにして、もう一度横になった。
目を閉じると、音が耳につく。
ぱちぱち……という薪が燃える音に、さーっ……という静かな音が混じった。
雨が降ってきたらしい。
寝てしまおう。
馬場の状態次第では、明日の乗馬レッスンはできないかもしれない。
そういえば、昔シエルには、泥道でも馬を駆るための訓練を受けた。
訓練したのはこの牧場ではないが、馬も私達も泥だらけになって、馬を綺麗にしてから一緒にお風呂に入って、綺麗にしてもらったことを、覚えている。
それは、遠い日の思い出。
私が、断頭台の露となっても消えない、心の内の宝石の一つ。
そして、まだ記憶も鮮やかな、今日の思い出を蘇らせる。
レティシアの乗馬服姿。二人乗りしたこと。私の腕の中に妹がいたこと。引き綱を引いたこと。馬上の妹と目が合った時に微笑んでくれたこと。フェリクスの前で見せた怒り顔。少しだけ分かった妹の過去。
全部が楽しいことばかりではなかったけれど、楽しかった……な。
妹にとってはどうだったのか分からないが。
……今日という日は、レティシアの心に、どんな思い出として残るのだろう?
強くなっていく雨音を聞きながら、私は一人きりのベッドで眠りについた。