屠殺場の思い出
王都から、少し離れた所を流れるアルトライン川の側にある、屠殺場。
家畜を殺し、肉と皮を得て、精肉と革に変換するための処理施設。
"裏町"と並び、王都の一部として扱われる時もあれば、王都の『外』として扱われる場合もある施設だ。
冬の栄養源を加工肉に頼ってきたユースタシア王国にとって、家畜を処理する施設の重要度は高い。
しかし、その臭いと衛生の観点から疎ましくも思われてきた。
それもあってか、『屠殺場で働いていた』という妹の発言に、騎士団長が顔をしかめる。
彼の薄茶の瞳が、妹の青い瞳を見据えた。
「屠殺場など……貴族令嬢の……いや、女の働く場所ではない」
「男も女も、ないですよ」
レティシアは、笑顔のまま断言した。
……その笑顔はいつものように可愛らしいのに、同時に底知れないものを感じさせて、背筋が寒くなる。
私は当主としての訓練を受けてきたから、そういった感情を、表情には出していない……はずだ。
しかし逆に言えば、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主としての振る舞いが要求されるほどの相手と相対しているということ。
私は、彼女がただの少女でないと、知っている。
【月光のリーベリウム】の、主人公。
いずれ来たる災厄を、"裏町"出身の貴族という立場と、純真な心根を武器に切り抜ける……『切り札』。
けれど、それでも彼女はただの少女のはずだ。
ただの、特別な力を持たない女の子のはずだ。
それなのに、彼女が語る言葉の力強さは、私が知らないものだった。
「今日食べるご飯が欲しい。その気持ちに、女の子だからとか、そういうのは関係ないんです」
「仕事なら、他に、いくらでも……」
「"表"では、そうなんですか?」
聞き覚えがある。
私達が……そして、そこに住む者達自身も、その区域を"裏町"と呼ぶように、そこに住む者達は他の区域を"表"と呼ぶのだ。
"裏町"とは、行政区分上、『旧市街』と呼ばれている区画であり……公式には、そこに住民はいないことになっている。
ただ、書類上の区分であり、実は、明確な線は地図に引かれていない。
それでも、人の心に引かれた線が、見えた気がした。
「――人頭税を払ってない私達にできる、安定した"表"の仕事は、屠殺場の雑用と、下水掃除ぐらいでしたから」
"裏町"が消えない理由だ。
多くの人が嫌がる仕事を……やってくれる、都合のいい存在。
それらの施設がなくなれば王都は立ち行かなくなるのに、なり手は少ない。
それを『喜んで』やってくれる者達がいるのだから。
「……レティシア。お前は……」
「ただの下働きですよ。屠殺場と言っても、解体は専門の人がいますし、刃物の研ぎも職人仕事ですから。刃物を洗ったことぐらいありますけど」
辿れない過去。
……屠殺場の日雇い仕事など、記録されない。語られることもない。
けれど、もしかしたら私が日常的に食べていた肉の中には、妹が働いた日に処理された物があったかもしれないのだ。
その肉を捌いた刃物を、妹が洗ったことも、あったかもしれない。
「私は、フェリクス様の言うとおり『女の子』ですから? それに、私達みたいな歳の子は、気を遣われていたから、ほとんどは、桶とか、まな板を洗うだけです。簡単なお仕事ですよ」
……『簡単なお仕事』。
彼女は軽く言う。確かに特殊技能は要求されないだろう。
しかし……逆に言えば、特殊技能を要求されない分、体力仕事だ。
誰でもできる、誰もやりたがらない仕事。
人頭税に、職業税、農地使用税……それらを払っていない――払えない――者達ができる仕事は、いくらもない。
"裏町"に批判的な者達は、彼らを税も納めぬ貧民と言う。
その者達も、加工された肉を食べ、上下水道を使っているだろうに。
そして彼女が言う『私達みたいな歳の子』――とは、いくつだ?
"裏町"でさえ気を遣われる年齢とは、いったい何歳ぐらいなのだろう。
私の妹は、いくつから、そんな仕事を。
「それに、屠殺場のお仕事は『おみやげ』が貰えるから人気だったんですよねえ。お仕事の後に食べるお肉が美味しくて」
……この国の暗部に思いを馳せ、憂鬱になっていた気持ちが、ちょっと薄れた。
「みんなで川原で流木を集めてきて、鉄板で焼いたり、モツを大鍋で煮込んだり……ああ、なんか懐かしくなってきました。また食べたいなあ」
"裏町"という言葉で想像される物からほど遠い、和気あいあいとしたエピソードだった。
しかし、もっといいものを食べさせてあげたくなる。
……私は彼女に、何かを与えられるのだろうか。
その思い出の味に、勝てるような何かを。
彼女が自分で勝ち取ったそれに匹敵するような、何かを……?
「馬は"表"ではあんまり食べないらしくて、皮を剥いだ残りが全部私達に回されるんですよね。たまにすごく筋張ってて固い時もあるんですけど、それはそれでお腹が膨れていいってみんな笑ってました」
たくましい。
そして……笑って?
そんな日々に、笑いがあるとは、上手く想像できなかった。
「だから、あのー。馬好きな騎士団長さんには悪いんですけど、私は、よく馬肉を食べてましたし、好物で……思い出の味、です」
思い出が重い。
「いや、そうか……俺は食べたことがないが……その、美味いのか?」
それは聞かなくてもよくないか騎士団長。
「ええ、美味しいですよ。……でもこれは、騎士団の方に言うことではありませんでしたね」
すまなさそうに私を見るレティシア。
私もそう思うが、妹のエピソードを聞けたので許す。
もしも、騎士団長がとやかく言ってきたら、ヴァンデルヴァーツの総力を挙げて潰す。
そんな度量の狭い男に妹を任せられるものか。
――しかし意外なことに、彼は思いの外、度量が広いところを見せた。
「……別に、馬そのものが嫌いというわけではないんだな?」
「はい。可愛いですよね」
美味しいと可愛いを両立させられるのは、心が強い。
そっと隣のリーリエに手を伸ばし、首筋を撫でた。
屠殺場に回されるのは農耕馬で、騎士団の軍馬や、貴族の乗馬用の馬が回されることはない……と思うが。
「乗馬は好きか?」
「はい。馬に乗ったのは今日が初めてですけど、好きになりました」
よかった。
もしも妹に、乗馬に対する苦手意識を植え付けてしまったらどうしようと思っていた。
「今日が初めて……そうか」
彼は、一つ頷く。
傾く日差しに獅子のたてがみのような褪せた金髪を照らされながら、頬を緩め、目を細めた。
そして、笑いながら言葉を続ける。
「【レティシア。俺が、本格的に乗馬を教えてやろうか?】」
……【公式シナリオ】に戻ってきた。