二人乗り
シエルが、一頭の白馬を引いてやってきた。
「わっ……綺麗な馬ですね」
「ええ」
馬の元に歩み寄ると、鼻面に手を差し伸べて、名前を呼ぶ。
「リーリエ。元気にしていた?」
リーリエが、名前を呼ばれたのに応えて軽く鼻を鳴らし、そっと私の頬に顔を寄せてきたので、軽く撫でながら頬ずりした。
耳が横に倒されたので、手を伸ばしてさらに撫でる。
やりたくもない意地悪を重ね、現実を無視したような都合のいいシナリオを可能な限り維持しようと努力し……と、最近は心労が溜まっていたので、たいへん癒やされる。
この牧場には、他にも何頭か預けているが、この子を選んだシエルはさすがだ。
リーリエは雌馬ということもあって気性が大人しく、人の言うことをよく聞いて、従順。誰もが求めるような名馬だが、初心者が馬に慣れるのにも最適だ。
私は、今ではシエルの指導もあって、どんな馬だろうと、鞍なしでも御せる自信があるが、従順な馬の方が楽だし、純粋に乗馬を楽しむことができる。
それにこの子は、今は亡き父が十六の誕生日にプレゼントとして贈ってくれた、特別な馬だ。
当時はまだ生まれて一ヶ月ほどの子馬だったので、今は七歳になる。
父は、社交に必要なドレスやアクセサリーをケチることはなかったが、個人的な贈り物をするタイプではなかった。
それは母も同じで、愛情を向けてくれはしたが、それは言葉や態度で、物ではなかった。
絶大な権力を持つ家の長子である私が、高慢にならないようにという配慮だったのかもしれない。
だから、十六歳……成人のお祝いにも、別に期待などしていなかった。
けれど、予想もしなかったプレゼントをくれた。
私は、何が欲しいと言ったこともなかった。
自由になる資金は与えられていたが、服は仕立屋にお任せで、娯楽本を買うぐらい。親におねだりしたこともないのだから、両親としてはやりにくい子供だったかもしれない。
母も亡くなっていたし、父からのお祝いなど、誕生パーティーがプレゼントだと言われるかと思っていたぐらいなのに。
実際、パーティー会場では何もなく、後日、珍しく私を連れて王都郊外の牧場へ来たかと思えば、そこでリーリエに引き合わせられたのだ。
私は、リーリエを一目見て、いっぺんに好きになった。
貴族教育――とその他訓練――の合間にせっせと時間を作り、シエルを連れて足繁く牧場に通い、彼女の世話をし、立派に人を乗せられるまでになった時は、本当に嬉しかった。
父が亡くなったのは、リーリエを贈られてから、たったの二年後。
――もっと話をすれば、よかった。
父なりに、私を見てくれていたのだと、思ったから。
シエルの入れ知恵かもしれないが、それはそれで、進言を聞き入れるぐらいには私のことを想ってくれていたのだろうと、そう思えるから。
父は、もういない。
ヴァンデルヴァーツの当主は、私だ。
けれど、父が遺してくれた物がある。
ヴァンデルヴァーツ家の資産。爵位・土地・現金・宝石・美術品・人脈――有形無形の全て。
リーリエに代表される、ささやかな思い出。
……それと、レティシア。
一番大きいが、一番困る贈り物だ。
今、私の心の大部分を占める難しい案件でもある。
妹のこと――【月光のリーベリウム】のことを知ってからというもの、そちらにかかりきりだった。
当主としての仕事をおろそかにもできない。
なので、最近は牧場もご無沙汰だった。
「元気そうでよかったわ」
たてがみに軽く指を入れて、すくように流し、ポンポンと首筋を叩いて離れた。
「いいなあ……」
レティシアが、ぽつりと呟く。
振り返って、ちょっと笑った。
「あなたが今から乗るのですよ」
今日は、いじわるはちょっと控えめで行くことにしている。
リーリエの前だ。彼女は大人しい馬だが、馬絡みで事故が起きれば致命的な物になりうる。あまり『ふざけて』はいられない。
運命だかなんだか知らないが、そいつのサポートの手薄さを実感している今日この頃なのだ。
「あ、いえ、そっちじゃな……いえ、なんでもないです」
「?」
妹が何を言いたいか分からなかったが、彼女を招き寄せる。
「挨拶なさい。丁寧に、しかし卑屈になる必要はありません。あなたもまた、この子の主人です」
「はい。――レティシアです。今日はよろしくね」
ブルル……と、軽く唇を震わせるようにして白馬から返事がある。
「レティシア。私が補助するから、まず、鐙に足をかけなさい」
「はい、お姉様」
指示通り鐙に片足をかけるが、危なげない。
返事もいい。
「そのまま、バランスを取って、鞍にまたがれる?」
「無理です、お姉様」
返事だけはいい。
「アーデルハイド様。私が」
「シエル。お願いね」
私は人に乗馬を教えた経験がない。
シエルの補助は、支えられているのに、むしろ自分で動いたようで……動きが身体に染みこむのに、そう時間はかからなかった。
七つ年上のシエルは、私のために先行してあらゆる教養と技能を叩き込まれた……と聞いている。
教わりながら教え続ける彼女は、私にとって常に先を歩む存在だった。
その彼女の指導を受けるレティシアが、補助ありなら鞍にまたがれるようになるまで、そう時間はかからなかった。
貴族令嬢にも色々だが、馬に乗るなどとんでもない……と、良く言えば大切に、悪く言えば甘やかして育てられているような令嬢では、いくらシエルでもこうはいくまい。
私は、シエルにかなりしっかりと仕込まれた。
なんでも、「いざという時に、馬に乗れないと、逃走手段の選択肢が減ります。生き延びられる確率が減ります」ということだ。
理由がヴァンデルヴァーツならでは。
普通の令嬢は、適度な運動による健康維持と体型維持――そして何より、乗馬を好む殿方の趣味に付き合えるように、という理由で乗馬を教えられる。
「では、アーデルハイド様。……補助は要りますか?」
「いいえ、シエル。……あなたに仕込まれたのだもの」
彼女にしては珍しい冗談めかした一言に、くすりと笑う。
鞍に軽く手を添えて、鐙に足をかけると、鐙から足を抜いたレティシアの後ろに、ひらりと飛び乗った。
両の鐙に足を載せた状態から、レティシアとの位置を調整し、座る。
シエルが、引き綱を取った。
「引き綱は私めが」
「よろしくね」
乗っているのがリーリエで、引いてくれるのがシエルなら、何も不安はない。
「ひゃっ!?」
レティシアのお腹に後ろから腕を回すと、妹が珍妙な声を上げた。
いきなりで驚いたのだろうと聞き流し、万が一にも落ちないようにと、しっかり固定する。
「レティシア。苦しい所はない?」
「胸が苦しいです……」
そう言って、ぷるぷると身を震わせてうつむくレティシア。
不安になったのは、一瞬。
妹は、なにやら悶えながら抑えた声で叫んだ。
「この体勢……お姉ちゃんが近すぎて、心臓に悪い……!」
ちょっと言ってることの意味が分からず、頭の中に遠い夜空の星々が広がる。
とりあえず、聞き流すことにした。