乗馬レッスン
「お待ちしておりました、アーデルハイド様。レティシアお嬢様」
宿を出た所へ、連れ立ってやってきた私達二人を、シエルが出迎える。
「わ……シエルさんも、かっこいいですね」
レティシアが、私に身を寄せて、ひそひそ声でささやく。
その程度の声のひそめ方では、シエルには聞こえているだろうが、彼女はいつものすまし顔のままだ。
先程レティシアにかっこいいと評されたシエルは、その言葉通り、いつものメイド服ではなく執事風の燕尾服を、一分の隙もなく着こなしていた。
男装の麗人……という言葉がこれほど似合う女性を、私は他に知らない。
ただ、いつもはメイドキャップに押し込んでいる豊かな黒髪を後ろで結い上げてポニーテールにしているし、何より、燕尾服に白いシャツ、黒いネクタイを押し上げる胸の膨らみがあるから、男と間違えるやつはいないだろう。
「……あ! でも、一番かっこいいのは、お姉様ですよ?」
「……はは」
思わず乾いた笑いで応じてしまった。
意図していやみったらしく振る舞ったのではなく、素で。
あまりにも、説得力がない。
「本当ですよ。お姉様のズボン姿は初めて見ましたけど、乗馬服も本当にお似合いで、立ち居振る舞いは凜として――」
距離を詰めて、延々と私に対する謎の高評価を垂れ流す妹の頭に手を当てて押さえ込んだ。
「わ、分かりましたわ。だから落ち着きなさい」
妹は、頭を押さえられながら、上目遣いで見上げてくる。
自分と同じ色合いの青い瞳が、私を試すようにじっと見つめていた。
「……分かってくれたんですか? 本当に?」
……いや、シエルの方が私よりかっこいいだろう、どう見ても。
――私の憧れの女性は、シエルだ。
もちろん、母も愛していたが、母は、儚げな人だった。
守りたいと思わせるひとで……私は、守る側になりたかった。
……母は、父の浮気の事実を……レティシアの存在を、知っていたのだろうか?
父本人が知っていたかさえ、分からない。
けれど、私にとってそれは、母に対する明確な裏切りだった。
……私がようやく大人になった時には、私が守るべき親しい人は、もう誰もいなかった。
強いて言えばシエルだが、彼女は私より強いし、何より彼女自身が、私を守るべき存在としている節がある。
何もかもあやふやな世界で、無条件で信じられるものがあるとすれば、シエルだけだ。
ありえない話だが、もしも裏切られたら、彼女が仕え、支えるべき主でいられなかった私が悪い。
……大きくなったらシエルみたいになりたいと言ったら、当のシエルは、彼女には珍しく苦笑した。
まだまだ子供の私の頭を撫でながら言ってくれた「お嬢様は、私などよりもっと素晴らしい人間になれます」という言葉を、忘れたことはない。
……まだ、なれたとは思えない。
肩書きの上では私はシエルより、遙かに偉くなった。
でも、それだけだ。
私は彼女とは違って、公爵家に生まれた。
それだけなのだ。
「レティシア。あなたが私を一番だと言うのは自由ですが、客観的に見て、百人いれば百人とも、シエルの方がかっこいいと言うのは間違いありません」
当たり前の事実を教え込もうとしたが、それでも妹は引かなかった。
「じゃあ、私が百一人目になります!」
私が「百人いれば」と言ったのが聞こえてなかったのかこの妹は。
前提を壊しに来た。
「では、私めも、百二人目になりましょう」
シエルもすまし顔で続けて、私とレティシアは二人して、ばっとそちらを見た。
妹が、我が意を得たりとばかりに、自信に満ちた顔になる。
「ほら! シエルさんもこう言ってますよ?」
そして胸を張る。
「レティシア。彼女は私のメイドですよ。主を差し置いて、自分の方がかっこいいとか言える従者がどこにいますか」
「う……」
視線をそらすレティシア。
「ほら、行きますわよ」
「あ、はい!」
三人で連れ立って、木の柵に囲われた草原に出る。
広々として、気持ちがいい。
「それでは、レティシアお嬢様。この場では、私の指示に従っていただきます。よろしいですね?」
「はい!」
いい返事だ。
シエルも微笑む。
「いい返事です。ですが、以後はなるべく大きな声は控えなされますよう。馬が驚けば、思わぬ事故に繋がるかもしれません」
「はい」
いい返事だ。
ちゃんと声量を抑えている。
「必要なことは、その都度教えて参りますが、絶対に馬の後ろには立たない。これだけは徹底してください。蹴られた時、取り返しがつきません」
「はい」
懐かしいな。
私も同じように教わった。シエルと一緒に、正にこの場所で。
あれから、十年以上。
こんな運命が待っているとは、思ってもいなかった。
それでも、この場所は、変わっていない。
季節ごとに違う顔を見せる草原も、空も、遠くに見える山々も、何一つ変わっていない。
変わらない物がある。
貴族として、ヴァンデルヴァーツの当主として、守らねばならない物がある。
過去に思いを馳せ、物思いにふける私に、シエルが声をかけた。
「――よろしいですか? アーデルハイド様」
「え? ええ。シエルが言うことでしたら。でも、少しぼーっとしていて。私は何をすればいいのかしら?」
反射的に頷いて、精一杯取り繕う。
「大丈夫ですか? 体調などは」
そしてじっと、私を見る。
下手な医者よりも、見立ては正確だ。
なにしろ、私が生まれた時から、私の世話をしているのだ。
シエルは、私が当主になった時、最も信頼できる補佐となるべく育てられた――と言う。
一応は本人の志願だと言うが、私が生まれた時シエルは七つ。
母も我が家のメイドだったが私が生まれる前に亡くなり、シエルは、使用人見習いとして住み込みで簡単な仕事をしていた。
天涯孤独で、頼る相手もいない少女が、断れるはずもない。
私の家が、彼女の将来を縛った。
彼女ほどの素質があれば、なんにでもなれただろうに。
「大丈夫ですわ。シエル。あなたが心配するようなことは、何もありません」
私が死ねば、彼女は自由になる。
できれば、その後もヴァンデルヴァーツを……レティシアを支えて欲しいが。
「そうですか……」
あまり納得していない様子のシエル。
「それで? 私がすべきことは?」
「はい。レティシアお嬢様と二人乗りで、馬に慣れさせてください、とお願いいたしました」
「……ん?」
ちょっと何を言ってるか分からなかった。
「いつの間にそんな話」
「たった今です」
ぼーっとしていた私が悪いらしかった。
「教え方は色々ですが、私はまず馬に乗っている状態に慣れるのが大事と教わりましたし、それが正しいと思っております」
「ええ、まあ……」
私自身、シエルとの二人乗りで教わったのだ。
乗馬レッスン自体は、絶対に必要だ。
今日、二人目の攻略対象に出会うために。
いずれ【乗馬イベント】を起こすために。
「一人だと咄嗟の際に危険な場合もあります。慣れている者との同乗ならそういうこともありません。もちろん私もサポートに付きます」
「……私がサポートじゃ、ダメかしら?」
それでも、運命を歪めるのが怖くて、悪あがきしてみる。
「ダメということはございませんが」
シエルはそう言って……レティシアをちらりと見た。
私も妹を見ると――きらきらと期待に目を輝かせている。
シエルに視線を戻した。
「……馬を……連れてきてちょうだい……」
あの目を裏切れるほど、私は心が強くない。