牧場への馬車
小旅行の支度を終え、週末がやってきた。
気持ちのいい秋晴れ。空気は澄んで、風もほとんどない。高い空に浮かぶ雲だけが、ゆっくりと流れていく。
今回の旅の目的は、貴族としての力を見せつけることではないので、馬車も一台きりだ。
元から我が家はあまり財力を誇示しようとはしていないため、これぐらいが丁度いい。
旅行とは言っても、あくまで王都近郊なので、馬車を飛ばせば、一時間もかからない。
別に飛ばす理由もないが、それでも大した距離ではない。
所詮は一泊二日の旅だ。乗馬用の服など、特別な着替えを入れても、大荷物にはならない。馬車後部の荷物入れには余裕があるし、軽いものばかりだ。
小旅行ということで、御者以外の使用人は必要ない。
なので、シエルに留守を任せるのも考えた……が、そうすると、レティシアへの乗馬レッスン担当は、私一人になる。
……心の負担が大きいだろう。
あまり仲良くなるべきではない。
妹とは、距離を取らねば。
「後は任せます」
なので、男性使用人の長である執事に留守は任せる。
私はシエルに全幅の信頼を置いているので、当主補佐としての影は薄いが、初老の彼も、先代から仕えてくれている優秀な執事だ。
馬車に、まず当主である私が乗り込む。
そして、すかさずシエルを呼んだ。
「シエル。隣に来なさい」
「は」
前回の馬車では、妹に隣に座られてしまった。
今回の旅行では、そうはさせない。
「では、私はお姉様の前に!」
そう言って馬車に乗り込むと、私の前に陣取るレティシア。
私を見つめて、にへへー、と頬を緩める妹は、どこか……ではなく、完璧に楽しそうだ。
……いっそ隣の方が、真っ正面から視線を受け止めなくてすむので、よかったかもしれない。
一応は、距離を取ることに成功したが。
妹が、ぐいぐい心の距離を詰めてくる。
「……馬車を出しなさい」
「はい」
手綱が引かれ、馬車が動き出した。
少しの間、妹はカーテンを開けた窓から、流れる景色を見ていた。
ユースタシアの王都は、石造りの建物が多く、地面もほとんどが石畳だ。
「私、ほとんど王都の外に出たことないんですよね」
人によっては、彼女の住んでいた"裏町"は『王都の外』として扱われるということは、言わないでおく。
私も、王都の外に出るのは久しぶりだ。
常に国内外から集まる情報を精査し、視点は高く持っている……つもりだが、その仕事ゆえに、かえって王都という拠点に縛られているところもあった。
今の妹よりも少し若い頃、諸国へ遊学の旅に出た記憶は遙か遠く。
今の私は、王都の石壁に貼り付く、一匹の家守だ。
その本能なのか、妹の発言の、細かい言い回しが気になった。
「……『ほとんど』ということは、王都の外に出たこともあるのかしら?」
妹は、軽く頷いた。
「ええ。お仕事で、勢子とかやったり」
勢子。……せこ?
「勢子……とは、狩りの時に、獲物を茂みから追い出したり、思わぬ方向へ行かないように、立ちはだかったりする役目のこと……かしら?」
「ええ。人数が欲しいとかで」
もしかしたら、使っている言葉が、生粋の上流階級である私と、"裏町"育ちの妹とではまったく違うのではないか……という線はなくなった。
私達は、同じ世界に生きている。
「貴族の依頼だったから、割とお給料も良かったんですよ」
確かに、安く上げたいから雇いの少年が使われることもあると聞くが。
王都近郊では少ないが、狼や熊に遭遇するのもありえない話ではない。
鹿や狐だったとして、追い詰められた獲物が思わぬ行動に出ることもある。
――大怪我をすることも、ある。
……危険手当込み、だろう。
多分、彼女が言う『割とお給料も良かった』というのも、危険の割には大した額ではないのだろう。
貴族が戦場に立つ戦士だった時代は、今は遠く。
常備軍が整備され、専業兵士が一般的となった現代では、王国騎士団の上級騎士に貴族籍が与えられる制度に名残が見られるだけ。
もはや貴族の狩りは、有事に備え、己を鍛える訓練とは呼べない。
訓練でも、害獣駆除でも、まして食糧確保のためでもない、遊興としての狩りに勢子を使うのは……貴族の傲慢としか思えなかった。
妹の過去には、謎が多い。
【月光のリーベリウム】の中でも、ほとんど語られない。
……『設定されていない』のではないか、と思えるほどだ。
『恋愛シミュレーションゲーム』というのは、主人公に自らを投影して、物語を追って行く遊戯なのだろうから。
現実的にも、"裏町"の人間の身辺調査は、困難を極める。
彼女が犯罪組織に関わっていなかったことが、皮肉にも足取りを追うことを不可能にしていた。
人間一人分の価値が、"裏町"では軽いのだ。
私は、思わず聞いてしまっていた。
「……レティシア。あなたは、他にどんなことをしていたんですの?」
「パン屋の下働きとか、色々ですよ」
にっこりと笑う妹。
パン屋で働いていたのは知ってる。
言えないけど、身辺調査で分かった『最後の足取り』だ。
それさえも、その時に勤めていた職場だったから分かったようなもの。
妹が若く可愛らしかったから、看板娘のように扱われていたのも大きい。
……誤魔化された。
あまりに露骨な誤魔化しに、言葉を見つけられずに黙り込んだ私に、フォローが入る。
「また、話す機会はあると思うんです。……特別なことは、何もないんですよ」
……そうなのかもしれない。
ヴァンデルヴァーツの誇る"影"の調査でも、よく分からないというのは……普通に考えれば、『何もない』ということだ。
目立った犯罪歴も……逆に被害者になったことも、ない。
ただ、社会の片隅で。
ひっそりと。
一人で。
調査担当から、これ以上は、いくらかかるか分からないし、金に糸目を付けずに調査をしても、成果が出るかも分からないと正直に言われてしまえば……それ以上続ける選択肢は、選べなかった。
ヴァンデルヴァーツの資金は潤沢だ。……だが、無限などではない。
貴族籍を与えるのだから、身辺調査は大事だ。
しかし、それはもう……終わった。
これ以上、妹の過去を知る必要は……ない。
少なくとも、政治的には。
【月光のリーベリウム】のシナリオ的には。
ない……はずだ。
「……話したくなったら、話しなさい」
「はい! ……でも、本当に改まって話すようなことは、ないんです」
妹は、いつも通りの笑顔を見せた。
そして、窓の外に視線を向ける。
「私はただ、生きてきただけ……ですから」
……その表情に、どこか陰を感じてしまって。
それが、物語として何も面白くないような『改まって話すようなこと』でなくても、いつか『話す機会』が訪れることを願った。
そんなシナリオが、なかったとしても。
それを話す相手が、私ではなかったとしても。
妹に、それを話せるような相手が出来ることを。
願って、しまった。