ふたりきりのダンスホール
妹用のダンスの練習着を注文した時、"仕立屋"は不満そうだった。
今まで彼女が、服の注文の際に不満を見せたことはない。
どういうことかと思い聞いてみると、「私は練習でも本物のドレスを着るべきだと思うんですよねえ……」と。
無茶を言う。
妹は、あまりダンスが上手くなかった。
……いや、習いたての初心者にしては上等だ。
しかし彼女には、よりによって陛下の前でつまづいて転んだ前科がある。
あのドレスはダンス用ではないとはいえ……いきなり本番と同じドレスで踊るとなれば、初心者の妹がやらかすのが目に見えるようだ。
――それでも、いずれ上手くなるだろう。
無論、すぐではない。
一回のレッスン。一日の練習。そんなもので効果が出るようでは『貴族の立ち居振る舞い』など、付け焼き刃で十分ということになってしまう。
それでも、今のレティシアほど真面目に練習している令嬢など、そうはいない。
柔らかく、しかし沈みすぎない、ほどよい固さの絨毯の敷かれたダンスホールで、私はレティシアと踊っていた。
本格的な舞踏会を開けるようなダンスホールがある家は、貴族でも多くはない。
しかし、我が家にはそれがある。
これでも、我が家は大貴族だ。
……"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"としても有名なので、あまり社交には熱心ではない。
招待されて出向くことはあっても、自分から大人数を招いたりすることは、まずない。
私の当主就任の際は、さすがに名だたる方々をお招きした……が、逆にいえば、以降、四年ほど使われていない。
物置……とまでは言わないが、普段は使われていないために、一時的に邪魔な物が置かれたりしている。
そんな、使用目的を考えれば可哀想な扱いを受けていたダンスホールは、レティシアが来てから、息を吹き返したようだった。
まだ余計な物は置かれているが、それも端に寄せられて、広い空間が確保されている。
姿勢をチェックするための大鏡に、休憩用の長椅子なども置かれ、練習場としての体裁が整えられていた。
さすがシエル。
今までは、ダンスは通いだったが、昔のように家庭教師を招けるようになった。
ダンスの先生に付きっきりで習い、その後、私とも練習をする。
それを何度か経て、私の目には上達していると見えた。
練習用とは言え、白いドレスのひらひらが愛らしく、まるで妖精のようだ。
――しかし、それは私の主観で。
客観的には、まだまだステップはつたなく。
今も、私の足を踏んだ。
「あっ……! ごめん、お姉ちゃん!」
「言葉遣い」
短く、最低限の言葉でたしなめる。
足を踏んだことには何も言わない。
よくあることだ。
「……不慣れで、ごめんなさい」
しゅんとして、力のない声で、もう一度謝るレティシア。
私は、悪役令嬢らしく「まったくですわ。ダンスも満足に踊れないとは、所詮は貧民の出ですわね」とでも言ってやろうかと思った。
「不慣れなものに慣れるために、練習というものは存在します。……今、できないことを恥じる必要はありませんわ」
けれど、やめにした。
報われない努力があることを知っている。
そして、報われるはずだった努力を摘み取る言葉があることを。
公式の私は、悪役令嬢だ。
いやみったらしい言動を垂れ流す、小悪党。
でも、ここにいるのは……妹にダンスレッスンをする一人の姉だ。
それでいい。
……それが、いい。
「お姉ちゃん……」
「言葉遣い」
ぴしゃりとやる。
気を抜いた時に出る、少し砕けた口調は、彼女の素に近いものなのだろう。
それを見せてくれるのが嬉しいと同時に……それは『必要とされていない』。
彼女に必要なのは、【主人公】として、シナリオを歩み通すための立ち居振る舞い。ただそれだけだ。
「は、はい。お姉様……」
「よろしい」
あまり甘い顔を見せるわけにもいかないのが辛いところだ。
しかし彼女は何が嬉しいのか、笑顔になった。
「……ありがとうございます、お姉様」
「せいぜい、足を踏まないでちょうだいね?」
私がそう言った数秒後、妹は、思いきり足を踏んづけた。
「ご、ごめんなさい、お姉ちゃん様!」
「混ざってますわ」
彼女は、知らないだろう。
私が、ダンスレッスンの際に足を踏まれることさえ嬉しいぐらい、妹を好きだってことを。
彼女は、知らなくていい。
レティシアは、飲み込みが早い。
その後も、たまに足を踏まれたり、よろけたところを受け止めたりしつつも……踊る姿が様になりはじめた。
くるくる、くるくる。
私はレティシアと、時間を忘れて踊り続けた――
――結果、レティシアが限界を迎えた。
「うええ……酔ったあああ……」
よろよろと、ふらつく足取りのレティシア。
その顔は青ざめ、口元を手で押さえていた。
「訓練が足りませんわね」
彼女の手を取って支えると、壁際の、休憩用の長椅子に連れていく。
「なんでお姉様は平気なんですか……?」
「慣れですわ」
実を言うと、私もちょっと視界がぐるぐるしている。
つい、レティシアと密着して身体を動かすのが楽しくなって踊りすぎた。
今すぐ、うずくまってじっとしたい。
でも、そんな不甲斐ないザマを見せられるものか。
妹が出来てから学んだ姉の哲学として、お姉ちゃんというものは、妹より優れていなくてはいけない。
妹が困った時、頼られるために。
妹が助けを求めた時に、手を差し伸べるために。
そして、妹にかっこわるいところを見せないために、だ。
レティシアを長椅子に座らせる。
……すると彼女は、私にすがりつくようにもたれかかってきた。
振り払うことは簡単だ。
……簡単な、はずなのだ。
けれど私はそうせずに、妹の隣に座って、彼女がもたれかかるに任せた。
妹が出来てから学んだ姉の哲学として、お姉ちゃんというものは、妹に甘えられてそれをはねのけられるほど、心が強くない。
私は精一杯頑張っているつもりだが、それは公式シナリオという後ろ盾があってこそ。
青い顔をして、気持ち悪そうにしている妹を、ぞんざいには扱えなかった。
……明らかに、私が振り回しすぎたせいだし。
「うう……」
軽く背中をさすってやると、苦しそうな表情が、すっと和らいだ。
「あ、それ気持ちいい……」
単純に時間が経って、くるくると回った時の、自分ではなく世界が回っているような強烈な違和感と浮遊感が、収まってきてもいるのだろう。
放っておいても、じきに良くなるはずだ。
けれど、少しでも気分が楽になるのなら……と、私は彼女の背中を優しくさすり続けた。
ずる……と、さらに体勢を崩し、私のふとももの上に頭を乗せるレティシア。
膝の上で丸くなる猫のような姿に、思わず口元が緩む。
バランスを取るために、何か嫌味の一つでも言ってやろうかと思ったが、毒気が抜けた。
しかし私から毒気を抜くと、何も残らない。
妹の表情に苦しそうなものが見えなくなったところで、私は、さすっていた手を止めた。
「……お姉様?」
レティシアが目を開けて、私を見上げる。
もちろん、既に表情は引き締めている。抜かりはない。
「顔色が良くなりましたわね。今日はこれで、練習は終わりです。明日から、また励みなさい」
もっと厳しく行こうかとも思ったが、あまりやる気をなくされては困る。
彼女にとっては、慣れぬ日々なのだ。
まあ、それはそれとして、ダンスは完璧に踊れるようになってもらう。
――来たるべき【最後の舞踏会】のためにも。
でもそれは、まだ先の話だ。
レティシアは、私のふともものあたりのドレスを、ぎゅっと握り込んだ。
「……もう一声」
「終わりですわ」
そう言うと、妹は愛らしい顔を絶望で染めた。
しかし、すぐにその絶望を上書きするように、彼女の目に強い意志の光が宿る。
「そこをなんとか……!」
「え、いや、だから終わり……」
「そこを曲げて、もう一声……!!」
私の妹は、腰が強い。
そのあまりの真剣さに、言い合うのが馬鹿馬鹿しくなって、私は深いため息をついた。
「後、少しだけですわよ」
「はい!」
返事だけはいい。
そして勝ち取った戦利品と言わんばかりに、私のふとももに頭を戻し、ぐりぐりと頬を押し当てる。
丁度いい所を見つけたのか動きを止めると、にへ……と頬を緩めた。
まったくもって、貴族令嬢として外に出せたものではない表情だ。
……何がそんなに楽しいのか。
それは、私には分からないことだけれど。
妹にそんな風にしてもらえるのは、姉としては、中々嬉しいことだった。