夜のお誘い
蝶よ花よ……と言うほどではないが、貴族令嬢として育てられた私には、キスの経験は多い。
したことも、されたことも。回数などいちいち覚えていない。
ただ、それは母やシエル相手の、親愛の情を込めて頬にするものだった。
唇にするキスは、特別。
唇と唇を重ね合わせるだけの、生物としてはなんの意味もない行為に、私達は意味を持たせた。
恋愛物語では定番中の定番で、キスシーンでの締めはベタすぎるとかなんとか言われたりする。
でも、これはいいものだ。
舞踏会の時にその感触を想像しながらも、焦がれるだけだった妹の唇に自分の唇を重ね合わせていると、幸福感が溢れてくる。
……いけないことをしているという、背徳感も。
「……はー……」
「っ……ぁ……」
唇を離すと、思わず吐息が漏れた。
妹は顔を真っ赤にしている。
「お、おね。お姉ちゃ」
「――いつからでしょうね。あなたに、こうしたかった」
捕らえるように掴んでいた腕を離し、妹の頬に触れる。
手袋ごしでも分かる張りのある肌を、舞踏会の時より長く堪能する。
そしてつん、と人差し指の先で頬をつついた。
「……これも?」
妹が困惑顔になった。
もう一回、つん……と頬をつつく。
「ええ。……幻滅した?」
「え? いいえ! それはない……んですけど」
言葉を濁す妹。
そのまま口元を押さえて、ちょっと目をそらす。
「……次々と発覚する新事実に、ちょっと脳が追いついていないっていうか」
「私も、あなたが突拍子もない言動をする度に、同じことを思ったわ」
道理で公式通りにいかないはずだ。
「……ごめんね」
「なんで謝」
もう一度、頬に手を当てると、妹が固まった。
「もう、自由にしてあげられそうにない。……私以外を見てほしくない」
「っえ」
目を見開くレティシア。
「……それは、その、恋人的な意味で?」
「この状況で他にあると思う?」
レティシアが、ふるふると首を横に振った。
「……私は、ね。断頭台に行くより、あなたが幸せになれないことの方が怖かった。自分の欲望をぶつけてあなたを傷つける方が、首を落とされるより怖かった。公爵家当主の地位も、あなたを笑顔にできないなら、何の価値もなかった」
手のひらで、頬を滑らせるように撫でた。
「一人の女として、お姉ちゃんはあなたのことを大好きよ、レティシア」
じわ、と妹の目に涙が滲んで、私は慌てた。
しかし、レティシアは自分の頬に当てられた手を包み込むようにすると、笑顔になった。
「私も、大好きです。……アデルお姉様」
私がアデルという愛称を許したのは、ヴァンデルガントの視察の時だけ。
その時はむしろ普通の言葉遣いにするように命じていたので、アデルの後にお姉様をつけて呼ばれるのは新鮮で、くすぐったくて……嬉しかった。
そして、ようやく気持ちが通じ合ったという確信が、温泉に浸かった時のように全身に行き渡っていく。
その温もりが指の先まで満ちて、ふわっと心が軽くなった。
――もう、何も怖くない。私の妹が一緒なら。
自分でも笑ってしまうぐらい単純だが、本当にそう思えたのだ。
「……でも、私、さっきいきなりキスされたのには思うところがあるんですよね」
「……あー、えっと……」
急にじとーっとした目になって軽く睨んでくる妹に、たじろいだ。
一瞬、そのまま身を引きかけたが、包み込まれた手が、がしりと掴まれて逃げられなかった。
「それはまあ? お姉様がキスしてくれたのは嬉しいですよ? でもファーストキスだったんですから、心の準備が欲しかったです」
正論だった。
「ごめ――んっ!?」
ちょっと背伸びした妹に手を引き寄せられ、唇を奪われていた。
妹の目が満足げに細められる。
そして、とろんと閉じられて、私もそれに合わせて目を閉じて、暗闇の中で、妹とのキスをゆっくりと味わう。
ほんの少し身をかがめ、腰を抱き寄せると、すとん……と踵が降りた。
このままずっとこうしていたいぐらいだったが、じきに息が苦しくなって……お互いにその気配があって、私は目を開けながら結びつきを解いた。
「……私の気持ち、分かりました?」
至近距離で見上げながらにこっ、とする妹の純真な笑顔が、今は小悪魔の物に思える。
「好き……」
「……本当に分かりました……?」
抑えきれず、ぽろっとあふれ出た感情に、レティシアが眉をひそめる。
「え、いや。うん。分かったわよ。うん、本当よ」
「……ごまかし下手ですか」
さらに湿度を増す妹の視線が、あまりにも愛しくて、思わず笑みが漏れた。
「なんで極上の笑顔なんですか、お姉様」
「うちの妹が可愛すぎるのがよく分かったから」
妹が眉をひそめ……ようとして、失敗したのが手に取るように分かる。
頬が緩んで、ひくついて。……嬉しそうにして。
「……もうっ!」
妹が胸に顔を埋めるようにして抱き付いてきた。ごまかし上手だ。
もちろん抱きしめ返す。
私はしばらくそうしていた。
嬉しくて。
私の腕の中に、愛しい妹がいることが。
もう、手を離さなくていいことが。
抱きしめているのも、抱きしめられているのも、嬉しくて。
「……ねえ。レティシア」
「はい。なんですか? お姉様」
抱きしめたままささやいた私に、レティシアが、耳にほど近い位置でのささやきで応える。
耳を震わせる、優しい響き。
その余韻で頭の奥の奥まで痺れさせながら、私は精一杯の勇気を振り絞って妹を誘った。
「……一緒に寝ない?」