【主人公】の選択
私は、妹に抱きしめられていた。
暦の上では春とも言えるが、まだまだ冷え込みの厳しい時期だ。多少は防寒に気を遣っても、馬車で冷えたのだろう。舞踏会の時そのままのドレスも、その向こうの身体も冷えていた。
背中に回しかけた手を、止めた。
抱きしめて温めてあげたい気持ちを、懸命に押さえ込む。
そして肩に手を当てると、ぐい……と押しやった。
「……レティシア、離れなさい」
「嫌だ……嫌です。……なんで? なんで、自分からおかしな方向に行こうとするんですか?」
しかし、彼女は私の腰に手を回したままで、押しやる動きに抵抗しながら、私を至近距離で見上げてくる。
その角度可愛いからやめて。
「おかしなって……」
「おかしいでしょう。どうして、自分から悪者になろうとするんですか?」
……どうして?
――どうして?
決まっているではないか。
そういう台本を渡された。
そういう運命と知らされた。
そういう『役』が与えられた。
不意に、感情のタガが外れた。
手を離したワイングラスが床に落ちて割れるような当然さで、あまりにもあっさりと、ここまで自分の心を殺して歩み通してきた自制心が、粉々になった。
人の気も知らないで。
私が、どんな気持ちで。
ここまで、たった一人で。
肩を強く押して、引き剥がしながら突き飛ばす。
「運命は、私の味方ではありませんわ!」
「私が、お姉様の味方です!」
それでも、妹は叫び返した。
「あなた一人の力でなにが――」
「できる! なんとでもしてみせます!!」
子供じみた言葉に、妙な説得力があった。
それは、彼女が既に、『なんとでもしてみせた』からだ。
「私がお姉ちゃんを、絶対に幸せにしてみせる!」
力強く握った拳を、どん、と胸に当てて、レティシアは宣言した。
「――私は、【主人公】だから……!」
どくん、と心臓が跳ねた。
何を言った?
この妹は、何を言った――?
「レティ……シア?」
それは。
その言葉は。
自分が物語の主人公だという哀れな妄想を抱いているのでなかったら。
ごくり、と唾を飲む。
おそるおそる、質問を口にした。
「【月光のリーベリウム】……って、知ってる?」
「知ってますよ! ここが【月光のリーベリウム】の世界だってことぐらい!!」
視点が、変わった。
くるりと、世界が切り替わる。
舞台装置の特殊効果を上手く使って、ほんの一瞬で幕を下ろしたり、舞台を入れ替えたり、早着替えをして、場面や登場人物が切り替わるように。
思い通りにならない妹に、困らされていた。
主人公としての役割を果たしながら……なぜ、悪役令嬢に構うのかと。
けれど、知っているなら。――この先を、知っていたなら。
「……じゃあ……なぜ!? 私が断頭台に行くのが、『シナリオ通り』でしょう! あなたは、シナリオに従えば良かったのに!! そうすれば……っ」
喉が詰まった。
視線を自室の絨毯に落として、呟くように弱々しい声になりながら、それでも、最後まで言い切った。
「そうすれば、よかったのに……」
ここから先の未来は、どうなるのだ?
私が知っていた、レティシアの幸せの形は、もうない。
彼女は、誰も選ばなかった。
私は所詮、人の形をとった舞台装置だ。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の名を冠する当主。妹に公爵家の継承権第一位を与え、自由になる資金を与え、薬を作るための設備と人員を与え――その代わりと言ってはなんだが、くだらない意地悪を重ねる。
それで良かった。
それだけで良かった。
よかった、のに。
「……お姉様。やっぱり、本当に……そんな、まさか……」
レティシアの視線がさまよう。
これまでのことを、思い返しているように。
「……自分から、【断頭台】に行こうとしてたんですか?」
「……ええ、まあ」
妹の目をまっすぐ見られなかった。
目をそらし、指先で、くるくると髪をいじる。
「なんでそんな馬鹿なこと」
「……だって、そうすれば全部、上手く行くでしょう」
レティシアは、認められないと言うように、ふるふると首を横に振った。
「何が。……何が? 上手くなんて行かない。お姉様は断頭台に送られて、処刑されるのに」
「……あのね、レティシア」
私は、ため息をついた。
私は、ヴァンデルヴァーツの次期当主としての教育を受けた。
「私は――あなたが幸せなら、それでいい」
……だからこれは、私の我が儘だ。
私自身の、願いなのだ。
「……やっぱり、馬鹿だ」
レティシアの顔がくしゃりと歪み、さっき突き飛ばされて開いた距離をゼロにして、私の薄い胸に顔を埋める。
「お姉様のいない世界なんて、私にとって、なんにも幸せじゃないのに……」
「レティ、シア」
私は、この妹のことが大好きだ。
健気で、素直で、愛らしくて……。
私なんかを大好きだって言ってくれる彼女が、愛おしくてたまらなかった。
それでも。
そっと肩に手を置いて、ちょっとだけ距離を取る。
「……【デートイベント】、他に誰かと行った?」
「お姉様だけです」
「【最後の舞踏会】で、どうして私を選んだの」
「お姉様以外に踊りたい相手なんて、いないから」
……この子は、私の断頭台行きをねじ曲げるのに、どれほどの無茶をしたのか。
【公式シナリオ】にない展開を、重ね続けた。
……自分を、犠牲にして。
あの三人は、公平に見て、優良物件というやつだ。
立場は言うに及ばず、人格面でも妹を任せられる奴ら。
コンラートは相性の問題による私怨と分かっている。フェリクスに思うところもあるし、ルイだって完璧ではない。
それでも、私よりは。
「【攻略対象】でもない私のために……」
視線を落とす。
彼女を幸せにできるのは、私ではないのだ。
「え?」
「……え?」
妹の不思議そうな声に、思わず顔を上げる。
何かが、噛み合っていない。
それは彼女も同じだったらしい。
レティシアは、言葉を続けた。
「お姉様、【攻略対象】ですよ?」
「なんですって?」
……今、この妹はなんと言ったのか。
そう。
私が。
【攻略対象】?