完全敗北
私は、三人の男達の後、妹に視線を向けた。
「レティ、シア」
私の、可愛い妹。
「――お姉様」
彼女が、私の代わりに全てを受け取る。――はず、だった。
「家名を守ることは、大事でしょう。しかし私は、この名が恐れられることだけが正しいとは、どうしても思えません」
我が家は、恐れられなければならない。
事実としてそれなりの力は持つし、実績もある。――そして、恐怖は脅威をより大きく見せる。
代々そんな風にして、役割を果たしてきた。
そんな風に教えられて、育てられて、私は今ここにいる。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主として。
「私は――」
「私は!」
私の言葉を遮るように叫んだレティシアが、きっと睨む。
「ヴァンデルヴァーツの名を! 誰もが恐れ、そして信頼するようにします。してみせます」
「……なにを、ばかな」
そう呟くしか、できなかった。
そんなシナリオは、なかった。
いや、【月光のリーベリウム】でのヴァンデルヴァーツの名は、そうなったのかもしれない。
でも、その時の当主は、レティシアだ。私ではない。
私は全てのルートで断頭台へ行く。
そうでなくては。
「私は、レティシア・フォン・"ヴァンデルヴァーツ"。あなたと同じ父を持つ、あなたの妹です。――あなたを断頭台へなんて、行かせない。この場の誰も、そんなことは望んでいない」
そんなはずはない。
事実として、私を疎ましく思う者達はいるではないか。さっき目を伏せたような、情勢も読めず、道理もわきまえぬ『敵』が。
私は、全部道連れにして行くつもりだった。
それでも、どうしてだか、この場にいる者達は、何も持っていなかった。
握らせたはずの証拠も何もかも……私と戦えるだけの武器を、持っていないらしかった。
私に対する、敵意さえ。
「どんな勘違いがあったのかは……分かりませんけど」
勘違い?
あれが?
【月光のリーベリウム】。あの、甘ったるい中に時折ほんの少し毒の臭いがした、恋愛物語の筋書きが。
これまでの大半を。
この度の災厄を。
妹の存在から、疫病の流行、その特効薬の素材に至るまで、全て言い当てて見せた、この記憶が?
……勘違い?
そんなはずが、ない。
そんなはず、ない、のに。
「まだ、この国にはお姉様の力が必要です。けれど、もう冷徹でも非情でも、なくていい」
……それはきっと、まぼろしだ。
でも、毎日人が死んだ時代があった。
毒を盛られ、刃で狙われるのが、当たり前だった時代だ。
――毒を盛り、刃で狙うのが、当たり前だった時代でもある。
私が、使用人の顔と名前、経歴を叩き込んでいるのも、その名残。
……そう、『名残』なのだ。
時代を経るにつれて、ヴァンデルヴァーツ家が殺す人の数は減った。
いつからか、守り、救う人の方が多くなった。
ゼロにはならない。この家はきっとまた手を汚す。我が家は、王国法の裏側に張り付くヤモリだ。
目を開き続ける必要があるだろう。
耳をすまし続ける必要もあるだろう。
「――私に貴族としての生き方を、矜持を、凜として前を向くことを。誇りを教えてくださったのは、あなたです。アーデルハイドお姉様」
【月光のリーベリウム】では、このシーンで主人公は喋らない。
姉を追い落としはしない。
ただ粛々と、私は糾弾され、断罪され、断頭台に送られる。
私は、ここで終わる。
血塗られた公爵家の歴史が、新たな当主によって紡がれていく。
そのはず、だったのに。
私は、ぼんやりと私の妹を見た。
レティシアは、凜として背筋を伸ばしている。
"仕立屋"の仕立てた薄紅色のドレスが、本当によく似合っている。
けれど、妖精のような儚さはもうどこにもない。
意志の光がみなぎる瞳に、気圧された。
私と同じ青い瞳に、怒りにも似た意志の力が燃えている。
「お姉様。あなたも、忠誠を誓われたのでしょう。"ヴァンデルヴァーツ"の家名と、『フォン』の貴族称号を名乗ったのでしょう。共に義務を果たしましょう」
そして、厳かに言う。
「義務と、忠誠を」
……ああ。
鋼の硬さと重さをもって、妹の言葉が胸に食い込む。
私は、レティシアの明るい「義務と忠誠を」の響きが好きだった。
妹は明るくて、優しくて――でも、それだけの少女ではないことなんて、知っていたではないか?
彼女の明るさが、優しさが、胸に響くのは。
彼女の胸の内に、傷つきながらも、必死に生きてきた過去があるから。
義務と、忠誠を。
耳の奥に、心の中に、レティシアの言葉がわんわんと響く。
――彼女が選んだ世界が、正しい気がした。
それでも。
それでも、私はそうあるべき未来を知っていた。
あれが間違いだとしたら、私が知ったのは、何なのだ。
――私が見た【エンディング】は、何なのだ?
どのルートを選んでも、そこに私はいない。
そこに私がいること、そのものが悪なのかもしれないのだ。
ただ、悪いことばかりではなくて。
『悪役』である私……【悪役令嬢】にとっては、今の展開は、都合がよくて。
一歩後ろに下がれば、生きることを許されるような気がした。
それでも私は、一歩前に出た。
引けるものか。
立ち止まれるものか。
今さら、退けるものか。
ここまで来たのだ。あと、少しなのだ。
今さら。ここで。ここまで来て。
妹の幸福を約束した【エンディング】に、まだ、手が届く。
そのはずだ。
人の心など移ろうもの。流れを掴めば。――叩けば埃の出る家だ。
私が清廉であったことなど、一度もない。
妹に敵対し、より強い権力を求め――無謀な望みを抱いた果てに処刑されるぐらいのこと、やってみせる。
仮にも悪役を名乗ったのだ。悪役側の全面的な協力があって、断罪が成功しないはずがあるものか。
……ここで我が家の血塗られた歴史を終わらせれば、将来、妹が責めを負う可能性をなくせる。
禍根を、後顧の憂いを、ここで断つ。
あるべき未来を。
私の妹が受け取るべき幸福を。
誰にも、奪わせるものか。
誰にも、邪魔させるものか!
――私自身にさえ、邪魔はさせない。
「私はっ……私、は!」
後ろから、手を引かれた。
はっとして振り返ると、最も忠実な従者が、真剣な顔で私を見つめていた。
夜明け前の空のような、暗い灰色の瞳。
「……シエル」
私が最も信頼する従者にして……最も敵に回したくない相手だ。
「どうか。この場はお引きを」
――そうしたら、シナリオが狂う。
「だって。だって私は。シエル。そう、シエルにだけ言うけど。私は処刑されなくちゃ――」
「は?」
シエルの怪訝そうな顔が、一番堪えた。
やめて。
そんな目で見ないで。
「アデル」
そんな、幼子をたしなめるような声色で呼ばないで。
彼女がその愛称を使うのは、そして、『様』をつけずに私を呼んだのは、ヴァンデルガント領での視察のような演技以外では、本当に久しぶりだった。
シエルが私をそっと引き寄せて、寄り添うように抱きしめて、顔を寄せる。
彼女に、か細い声で、呟くようにささやいた。
「シエ、ル。……私、より良い未来、を」
より良い未来のために。
未来を予測し、最も良い『選択肢』を選び取れと。
彼女が、私にそう教えたのだ。
そして私は、【エンディング】――『未来予想図』を知った。
だから、それをなぞってきた。
私は死ぬことになっているが、間違うよりはいい。
ヴァンデルヴァーツの当主として、道を間違えるよりは。
「もう、いい。もういいから。――どんな計画があったのか分かりませんが、もう状況は変わったのではありませんか? 常に状況を分析し、古い計画に固執しないように――と、お教えしたはずですが」
そうだ。
……でも、私は、怖くて。
運命のシナリオから外れるのが、怖くて、たまらなくて。
知らない道が、怖くて。
「お願い」
ぎゅっと、シエルが真剣な目で見つめながら、私の手を強く握った。
「……ですから」
その痛いほどの感触と、時折、明らかに従者としての領分を踏み越えている彼女の口調に、私は気圧された。
「……うん」
幼い頃、シエルに言い聞かせられた時のように頷くしか、できなかった。
私が信じていた物は、粉々になった。
だから、もう、信じる人が言うことに従って、頷くしか。
言う通りにするしか。
そうするしか、できなかった。
列席者に一礼したシエルに手を引かれ、退場する。
――拍手と共に。
罵声は?
ひそひそ声は?
なぜ。
笑顔と。
拍手を。
私が、受けている?
――私は、何かを間違えた、らしい。