ファーストダンスの指名
あまりに唐突な『ご指名』に、私は混乱していた。
なぜ、姉を、指名する。
確かに、姉妹で踊るのは、普通にあることかもしれない。
まだ婚約者が決まっていない令嬢に変な虫をつけないためにとか。
大規模な舞踏会デビュー前に経験を積ませるためとか。
だから、本番ではないが私だって妹とダンスの練習をした。
百歩譲って、姉を踊りの相手に指名するのはいい。
だが、それは『この三人の誰も選ばない』ということ。仲を深める絶好の機会ではないか。
思わず周囲を見回していた。
陛下の後ろにコンラート。少し離れて、左右にルイとフェリクス。
――そして、目の前にレティシア。
妹が歩いてきて、手を差し出す。
私は、その手を取れない。
それでも、この場をどうにか乗り切ろうと妹に歩み寄ると、その手を取って引き寄せて、小声でささやいた。
「レティシア。どういうこと?」
「ダンスの申し込み以外の何かに見えますか?」
見えないけれど。
「それが、どういう意味か分かって――」
「全部分かっているつもりです、お姉様」
そして、促された。
陛下が下がり、ぽっかりと空いたホールの中央へ。
「え、いや。分かっているなら、他の相手と……」
妹が、不機嫌になったのが分かった。
私は、何かまずいことを言ったのだろうか。
相手と直前に喧嘩したとか……?
レティシアは、私の手に指を絡めるようにすると、ぐい、と引っ張った。
「――私、お姉様以外に踊りたい相手なんていません」
「は?」
「行きましょう、お姉様」
え?
……は?
ほとんど無理矢理、ホールの中央に引きずり出された。
一番最初に、ダンスを踊るのは特別だ。
場が温まっていない一番初めにダンスをするのは結構気合いが要るので、ホスト夫妻がその役を担うことが多い。
来賓とそのパートナーだったり、ホストと来賓の場合もある。
あるいは今日のように、誰か一人を指名して、踊る相手を選ばせたり。――実質的な褒美として。
ファーストダンスは、そういう特別な二人が踊るべきだ。
その栄誉を与えられた妹が指名すべきは、間違っても、私のような女ではない。
ピアノが始まる。
シャンデリアの下がる中央で、私は固まっていた。
あ、これを落として事故に見せかけて……いや、小説の読み過ぎだ。そうタイミング良く落とせるものか。
でも万が一落ちてきたら、妹を突き飛ばそう。
立ち尽くす私に、妹が両手をつないで、耳に顔を寄せてささやいた。
「ほら、曲、始まってますよ。……私に恥をかかせるおつもりですか?」
それはいけない。
私の妹が侮られる? それは家守の紋章に懸けて、許せることではない。
ぱっと身体を離し、けれどつないだ手は離さずに、曲に合わせてステップを踏み始める。
ふわりとスカートが広がり、フリルにレースにリボン、立ち止まっている時には過剰にさえ思える装飾の全てが、流れるようにひらめいて、動きに華を添える。
練習用のシンプルなドレスでは、こうはいくまい。
……ああ、本当に上手くなった。
一年間の積み重ねを実感する。
下手なステップで、私の足を踏んでいた妹は、もういない。
妹と過ごした一年間が、ステップの一踏みごとに蘇るようだった。
私が支えねば踊りの体を成さなかった、初めの練習の頃とは違う。
今日が、本番だ。
くるくると、円を描くように。
立ち位置を入れ替えて、時に身体を寄せて。
私は、可愛い妹に対して何ができたと胸を張って言えることもない、不甲斐ない姉だ。
運命なんてものにすがらねば、私は妹を幸福にできない。
でも妹は今、私の目の前で、幸せそうに笑っている。
生涯を共にするパートナーと、ではないかもしれないが、一瞬たりとも無駄にすまいと言うように、全身で喜びを表現して。
うちの妹、そんなに踊るのが好きだったのか。
相手が私だから……というのは、うぬぼれが過ぎるだろう。
この笑顔を曇らせたくはないが、呪いつつも、受け入れ、頼りにした運命の筋書きはもう少しで終わりだ。
それでも。
今は。
今だけは。
この瞬間だけは。
妹の踊る相手は、この世界に私一人。
その幸福を噛み締めながら、私はピアノの旋律が聞こえなくなるその時まで、妹と踊り続けた。
妹は一度も足を踏まなかったし、姉の欲目を差し引いても、上々と言えるダンスだった。
妙な緊張感があったし。
ピアノが終わると同時に動きを止め、そっと身を寄せてきた妹が、少し高い位置にある私の目をじっと見た。
その視線が、少し下がる。……ちょうど、唇のあたりに。
……いや、待て。
これは、恋愛物語の締め。
事実上のプロポーズというか、婚約発表に等しい。
どっどっどっ、と心臓の鼓動が高鳴って、息が苦しい。
考えないようにしていたが。
いきなり自分が踊ることになって、素で忘れていたまであるが。
私の記憶が――【ログ】が――正しければ。
ダンスの後の締めは、三人とも共通で。
キスシーン、だ。
私の妹が唇を奪われるのを見るのは、色々と複雑すぎて断頭台の方がマシだが。
かといって、今、この状況も。
思わず、身を引いていた。
しかし、私が身を引いて生まれた空間を埋めるように、妹が胸を押しつけながら一段と身体を寄せてきて、私の手をぎゅっと握る。
そして、右手を私の頬に伸ばしてきた。
手袋越しでも、いや、だからこそ。
絹の手袋をまとった指先が、壊れ物を扱うような優しい手つきで頬に触れる感触が、私の感覚をことごとく奪って、視線をレティシアに釘付けにした。
私の可愛い妹は、すっと背伸びをして。
動けないままの私に、顔を近づけて。
思わず、私は目を閉じてしまって。
頬に柔らかい感触があって、ちゅっ、という唇を鳴らす音が遅れて聞こえた。
そろそろと目を開けると、妹が背伸びしていた踵を地面に戻すところだった。
視線が合うと、にこ、と柔らかい笑顔。
………………。
…………。
……。
そっかー、ほっぺかー!
姉妹同士だから、それが普通! うん! そう!
今も頬に残る感触にどきどきしながらも、周囲の状況もろくに見えていなかった混乱状態から回復し、少し冷静になった。
逃げようと思えばいつでも逃げられたはずなのに、動けなかった理由、とか。
あの一瞬で、妹の唇の感触を想像してしまった、とか。
……残念だと、思ってしまった、とか。
冷静になった瞬間に死にたくなった。
何を考えているのだ。
断頭台があったら掛けられたい。
そこで、妹が微笑みながら目配せして、そっと目を閉じた。
……そっか。
お返しができる。
いや、むしろしなければ。
私も先のレティシアの動きをなぞるように、右手で彼女の頬に触れた。
手袋越しでも、妹の頬の張りが分かる。
永遠に触れていたい。
でも、多分私はすぐに、指先でつつきたくなるだろう。
だから、今は顔を覆うように手のひらを軽く当てるだけにとどめて。
ほんの数秒、無防備極まる妹が、私に触れられることを許してくれている事実を味わった。
そして、そっと身をかがめて。
ほんのちょっと軌道を変えたくなる欲望を殺し切って。
礼儀としてのキスを妹の頬に落とした。
くちづける直前で閉じていた目を開けて身を引くと、レティシアも目を開けるのが見えた。
ぱちぱち……と周囲から拍手が湧き起こる。
私の予定、いや、【公式シナリオ】では、結ばれた二人への祝福の拍手で終わるところだったのだが。
それぞれ軽くドレスの裾をつまんで礼をして、下がった。
ピアノが違う曲を奏で始める。
ぽっかりと空いたホール中央の空間を、ペアが一組、二組……と埋めていく。
これからしばらくが、大多数にとっては舞踏会の本番だ。