エスコートのマナー、舞踏会編
春が来るまで、もう少し。
大陸の中でも北の方に位置するユースタシア王国では、日が落ちると、まだまだ肌寒い。
――という理屈でごり押ししてきた妹が、馬車の中で私にぴったりと寄り添っていた。
もう、いちいち引き剥がすのも面倒になり、最後なのだから好きにさせるか……と諦めた。
実際、くっついていると温かいのもある。
シエルともう一人、お付きのメイドを連れている。
疫病が流行している間は、シエルさえ連れず、御者一人で登城したこともあったものだが。
先日、疫病の終息宣言が出された。
いつかまた牙を剥く日が来るかもしれないが。
かつては、暴れ狂った疫病が感染先を失って自滅するような形で消えて行ったと推測されている。
それが、今度は人の手で抑えられた。
私の妹の功績だ。
本人はことさらに誇るでもなく、それがまた賞賛を浴びている。
今日は、待ちに待った【最後の舞踏会】だ。
運命に従って、ここまで歩んできた。
運命に抗って、疫病が流行る前にどうにかできなかったのかという後悔。
妹を助け、シナリオ通りに事を収めてみせたという達成感。
レティシアと、もっと一緒にいたいという未練。
ぐちゃぐちゃの感情を持て余しながら、今日までを指折り数えてきた。
――その全てが、今日で終わるという解放感。
馬車を降りると、道を示すように吊り下げられたランタンが並んで、夜の暗さを追い払っていた。
衛兵長以下、王城付きの衛兵達に歓迎される。
「――ユースタシアの王城へようこそ! アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ様、レティシア・フォン・ヴァンデルヴァーツ様。……心より歓迎いたします」
衛兵達はもう、口元に布を巻いていない。
ただ、揃って、二の腕に黒い布を巻いていた。
今日の舞踏会が、疫病の終息が宣言されたことを祝う華々しい祝祭であると同時に、犠牲者への哀悼を示す儀式であることを忘れないために。
今後も被害者の救済と、立て直しは続いていく。
王城に入ると、壁のくぼみに置かれた油皿に油が満たされ、炎が灯っていた。
夜の舞踏会は、国力がはっきり分かる。燃料だってタダではないし、それを灯して回る人件費だってかかる。その基準でいえば、我が国は間違いなく大国であり、強国だ。
控え室に通された。
以前、【承認の儀】の際にも来た部屋だ。
あの日、私の妹は貴族になった。
そして今日、その地位は揺るぎないものになる。……いや、もうなっているか。
公式に認められていなかった頃から、彼女が私の妹である事実が変わらぬように。
誰もが知っている。誰が自分達を救ったのか。この大陸を破滅の運命から救ったのが誰なのか。
「…………」
「…………」
シエルともう一人のメイドは手続きに向かい、控え室に二人残された私達姉妹は、無言だった。
……何を話していいのか、分からない。
けれどその沈黙はそう長くは続かなかった。
ノックの後、扉の向こうからシエルの声が聞こえる。
「アーデルハイド様、レティシアお嬢様。順番になりました。――準備はよろしいでしょうか?」
「……シエル。他に誰か、呼びに来ていない?」
「誰か? ……いえ、おりませんが」
……いない?
【公式シナリオ】では……この段階で、妹を迎えに【攻略対象】が来る。
ここで、未来が分岐したと分かる、重要なシーンのはず。
宮廷儀礼の方が勝った……ということだろうか?
会場へ通される順番にも意味がある。主賓は最後だ。――つまり、妹が。
これは、【攻略対象】と共に登場することで、妹の庇護者が誰なのか――彼女がパートナーとして選んだのが誰なのか、それを他の出席者に知らしめる意味合いもあるはず。
それはまあ、私はヴァンデルヴァーツ家の当主にしてレティシアの姉。二人一緒に呼ばれても、おかしくはない……はずだが。
私がエスコートしていいものだろうか。
ここでは、選んだ【攻略対象】と共に出席するべきなのだ。
未来を共にする、恋人と共に。
少し迷って、私は立ち上がった。
「行きましょう、レティシア」
「……はい、お姉様」
心なしか、妹は緊張しているようだった。
そういう真面目で気を張っている顔も、ずっと見ていたいのはどういうことか。
しかし、主役が緊張しているのはよろしくない。
私は、安心させるように微笑んだ。
「大丈夫ですわ。心配することなんて、何もないの。――全部、あなたの味方なのだから」
運命は全て、あなたの味方。
「……お姉様も、ですか?」
「え?」
「お姉様も、私の味方でいてくれますか」
あまりにも愚問だ。
そんなことは、決まっているではないか。
私の妹は、主人公。
そして私は、悪役。
「……ええ。私はいつだって、あなたの味方ですのよ?」
――私達は、同じ舞台の共演者だ。
最初から最後まで、徹頭徹尾、ずっと妹の味方。
私は、台本に従って演じきる。
誰にも運命は変えさせない。
この世の全てに、この子の味方をさせる。
私にとって一番大切で、大好きな妹のことを守らせる。
それ以外、何も要らない。
「お姉様……」
妹が、手をぎゅっと握ってきた。
「私のことを、信じてくれますか」
「ええ、もちろん」
「私が、どんな突拍子もないことを言っても……私の味方でいてくれますか」
「もちろん。あなたは、ヴァンデルヴァーツ家の次女にして、次期当主。それに今をときめく"救国の聖女"ですもの」
「……次期当主とか、要りません。当主の地位はお姉様のものです」
「私は、ただの順番の話をしていてよ? あなたのような田舎娘に、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"当主の座は務まりませんわ」
あえて冷たく言う。
――そう、血塗られた公爵家の当主の座など、必要ないのだ。
彼女の肩書きは"救国の聖女"だけで十分だ。
妹が誰を選んだのか、結局分からなかったが、パートナーはレティシアを支えてくれるだろう。
「そうですね、お姉様。行きましょう」
ぐい、と妹が手を引くが、私は首を振って止めた。
「お姉様?」
「庶民のように手をつないで行くつもりですか? あれだけ教えたのだから、マナーぐらい覚えてほしいものですけどね」
今日から先の未来には、妹の隣に、口うるさくマナーを仕込む姉はいないのだ。
「……あ。ごめんなさい……」
私は手を振りほどくと、妹を置いて前へ進む。
そして振り返り、うつむく妹に手を差し出した。
「私がエスコートしますわ。未婚で、パートナーのいない令嬢は、親族にエスコートされるべきです」
誰かしらが舞踏会の会場で待っているのだろうが。
今は。
今だけは。
妹をエスコートするのは、私がいい。
「……お姉ちゃん……」
「ほら。言葉遣い」
と言いつつ、『お姉ちゃん』の響きをじっくりと噛み締める。
こう呼んでもらえるのは、最後かもしれないのだ。
「はい、お姉様」
妹が私の手を取り、私はその手を自分の腕に添えさせた。
こうするのも、きっと最後。
「それでは……」
こほん、と妹が喉を整える。
そして、キリッとした顔になった。
私を見上げる目には、並々ならぬ決意。
「【行きましょう、お姉様】」
背筋が震えた。
何度も聞いた、【知っているセリフ】。
このセリフが、このチャプターの締めくくり。
ここから【エンディング】までは、実質的に一本道だ。
頭を悩ませる【選択肢】は、もうない。誰と踊るかだけだ。
妹がこれまでに選んできた選択肢が、歩んできた道が、この未来まで導いた。
綺麗なドレスを着て、絆を……愛を育んだパートナーにエスコートされ、踊って、功績を賞賛される。公爵家の当主にもなる。
そういう、これまでの苦労をしみじみと噛み締めながら幸せに浸るためのイベントだ。
ついでに今まで意地悪していた姉が権力の座から転げ落ちるが、心情的にもテキスト配分的にもオマケ。
このイベントを、見たかった。
この未来に、辿り着きたかった。
【最後の舞踏会】。
目標その一にして、実質的な最終目標。
私の全てを、くれてやる。
だから、私の宝物だけは、どうか。
誰にも、運命は変えさせない。
誰にも、だ。
たとえ、一瞬ここで妹の前にひざまずいて許しを請いたくなったとしても。
そんなものは、気の迷いだ。
死ぬのは……ちょっと怖い。
それでも、私は何人も殺せと命令した。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"は、役名だが……ゆえのないものではない。
ゲームとしてはただの『設定』の、血塗られた役職。
私は、義務を果たした。
死にたくないと抗うだけなら、できた。
全てを放り出して、『未来に備える』ことも、きっとできたのだ。
運命に抗って、生き残るために無害な女になることも、できたのだ。
そうすれば、もしかしたら。
下町の妹を見つけ出して、二人で、仲良く。
貴族の地位を捨てて、貧しく、けれど平穏に。
それはどれほどの幸せだろうと思って――自嘲する。
そんな未来は、許されない。
そんな筋書きは、なかった。
それに、そんな無力は許せなかっただろう。
疫病に対して何もできない歯がゆさを抱え、ただ怯えて過ごすことになる。
守れたかもしれない。自分が捨てた立場なら動けたかもしれない。放り捨てたシナリオなら、あるいは――と。
そして、妹が病に倒れても、薬を用意することもできない。
運命の強制力がどれほどの物かは知らないが、今のところほとんど全て、運命の筋書き通りになっている。
きっと、大筋は変わらないのだ。
だから私がすべきは、妹にもっとも近い立場で、舞台に立つことだけ。
私は運命に媚びを売ろう。
へつらって、取り入って、ひざまずいて、誇りを差しだそう。
この舞台において妹を傷付ける『悪役』は、他ならぬ私。
ならば私がこの舞台にいる限り『代役』は、用意されないはず。
私は、演じ切った。
用意された道を、歩み通したのだ。
後は、せいぜい観客の印象に残るよう退場するだけ。
待ち望んだ、終幕だ。
……早く、楽になりたい。
いっそ『スキップ』したいぐらいだった。
そんな機能はないけれど。
スキップも、オートも、セーブも、ロードも、クイックセーブも、クイックロードも、バックログも。
本に挟む栞のような、長い物語を辿るために用意された便利な機能は、ない。
何もかも、ない。
あったら、楽だったと思うけれど。
私はかたわらの妹を見た。
「……大好きよ、レティシア」
「へ!? お、お姉様……?」
私は微笑んで、腕で合図をして、歩き出した。
「え、ちょっと。さっきの……もう一回!」
この世界にバックログ機能は搭載されていない。
だから、私はすまし顔で妹を無視して控え室のドアを開くと、シエルも伴って、会場へ向けて歩き出した。
まったく、この妹は。
あまり派手にして運命に目を付けられたら、どうするのだ。
さっきのは舞台袖で、次の出番を控えた、敵同士を演じる演者と演者が、ほんの少し仲良くしていただけの話。
一歩ごとに、私の胸を諦めと共に幸福が満たす。
運命でさえ、妹と一緒にいられる私にとって最も幸福な時間を、駆け足で飛ばせないのだから。
断罪はさせてやる。
首もくれてやる。
でも、私の幸福だけは、たとえ運命にさえ奪わせない。