ウォールリザードの逆鱗
転んだレティシアが、すぐに上半身を起こしたのを見て、私はほっとした。
しかし、そこから動かない。――いや、よく見ると、その華奢な身体が、細かく震えていた。
先ほどまで謁見の間に満ちていた祝福ムードはもうどこにもなく、大事な儀式を終える段になって転んだ田舎娘を見る、冷たい視線ばかり。
元々、野次馬根性のある者しか列席していないような儀式だ。
先程は、王位継承権第一位のコンラートの顔を立てて、とりあえず拍手をしたようだが。
「おやまあ、こんな場でなんということを」
「まあ、はしたない」
「これで貴族だというのですから……」
「前当主も、いったいあの顔の裏で何をやっていらしたのか」
「情けない姿だことで……」
今、私の耳に届くのは、くだらない嘲笑と侮蔑ばかり。
私の身内に対するそれらに、はらわたが煮えくり返るようだった。
貴族とはいえ、十六の女の子に、何を求めているのだ、こいつらは。
衛兵達より、品がない。
――……こんな【イベント】は、なかった。
つまりこれは、『アクシデント』だ。
私は、赤い絨毯の上を歩み、妹の一歩手前で止まった。
「……立ちなさい、レティシア」
「……は、い」
小刻みに震えながら立ち上がるレティシア。
その手を取ると、手から震えが伝わって……きて……。
思わず、その手を強く握っていた。
「いたっ……も、申し訳……」
「黙ってなさい」
短く言う。
少し力を緩めて、その手をぐいと引いた。
彼女と、立ち位置を入れ替えるように前に出る。
陛下の前だ。
控えようと、思った。
大人になろうかとも、思った。
ただ、この場をやりすごせばいいと、思っていた。
……ああ、でも。
レティシアが、震えているのだ。
小刻みに震える手を、私は許せなかった。
抱きしめてやりたいが、それは私に、向いていない。
私はそんな、『いいおねえちゃん』ではないのだ。
「――列席の皆様方に、感謝を。私の妹が陛下に『正式に』貴族と認められた今日というよき日に、皆様方とこの場を共有できたことを、嬉しく思いますわ」
私は、にっこりと微笑んだ。
割と距離があるが、王子の顔がひきつるのが分かった。
「ですが、少々雑音が多いようですわね」
「……お姉様?」
口の中だけで呟くような妹の声を聞いたのは、私だけだろう。
しかし、私の声は、皆が聞く。
「……三公爵家が一角、ヴァンデルヴァーツの、爵位継承権第一位の耳を汚すような『雑音』が……」
見える範囲で、陛下と宰相以外の全員が動揺するのが分かった。
――この場では、私が二番目に偉いのだ。
陛下をトップとして。
宰相はあくまで国王陛下の部下、宮廷官僚であり、爵位を持たない。
コンラートは第一王子で、王位継承権第一位だが、それだけだ。継承権も、王族という血筋も、それそのものに権限はない。
私は、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。ヴァンデルヴァーツ家『当主』。
ヴァンデルヴァーツ家の全てを統括する立場だ。
対するレティシアは、腹違いの妹だ。姉である私には嫌味を言われ、軽んじられ、屋根裏部屋をあてがわれている。
それでも私の妹は、公爵家の爵位継承権第一位。
彼女への侮辱は、私への――ヴァンデルヴァーツ家への侮辱だ。
私に貴族の力を振りかざす趣味は、なかった。
しかし、相手も貴族。
貴族にとっての名誉は、騎士の鎧と同じ。
それを、無遠慮に、軽率に汚そうとする輩に。
遠慮など、要るものか。
事態を把握しはじめた、比較的察しのよい数人は、目を伏せた。
目をそらせば負けというのは、"裏町"も宮廷も同じ。
「貴族でもない小娘一人に……」
一人がぼそりと呟いた。
聞こえないと思ったわけでもないだろう声量だったが、特定されまいとでも思ったのだろう内容だった。
ヴァンデルヴァーツの地獄耳を、舐めるとは。
きっちり視線をその太った男性貴族に向けると、彼は明らかにうろたえた。
「……我が妹は既に継承権を認められ、今日はあくまで、正式な承認の儀ですが? それに、儀式はもう終わっております。儀式に参列しておいでなのに、正確な事実を理解しておられないような発言が聞こえたのは……不思議ですわね?」
さらに数人が、目を伏せた。
「いや、そのような……」
「では、どのような? 『男爵様』?」
笑顔で詰めて行く。
男爵ということで、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵……と、下から数えた方が早いどころか、貴族としては末席。
貴族の強さは、爵位の強さだ。
それはもちろん、領地の広さや蓄えた財産、築き上げた人脈にも左右されるが。
そのどれをとっても、ヴァンデルヴァーツに敵う家など、この場にいない。
彼は、顔面蒼白になって顔を伏せるが、既に遅い。
この場を収める権利を持っているのは、より上位の貴族である私であり、この男ではない。
言葉を失った彼が引っ込められ、代わりに黄色いドレスを着た婦人が前に出た。
確か、彼の妻だったはずだ。
「……うちの者が失礼をいたしました。……なにとぞ、寛大な心でお許しくださいますよう……」
私は、内心で息をついた。
……ここらが落としどころか。
破滅させてやりたい気持ちが少しあるが、それは多分……『やりすぎ』だ。
妻の方は割とまともなようだし、ここで降伏を突っぱねれば、行くところまで行かねばならない。
負けるつもりはない……が、得る物は、悪評以外にない。
そして、悪評はもう"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"には、足りている。
「皆様。顔をお上げくださいませ」
言葉通り、全員がそろそろと顔を上げ、私に注目する。
「我が妹にも至らないところがございました。しかしそれについては、今後も私が当主として責任をもって、教育を施すということで――」
そこで言葉を切った。
「よろしいですわね?」
言外に、はっきりと「口を開けば潰す」と、『心を込めて』、謁見の間に集った貴族達を見渡す。
シエルの教えを受けた目力を、もう一度信じることにした。
私の視線を向けられた全員が、いっせいに目を伏せる。
つまり、陛下と宰相と王子以外の、全員だ。
……やっぱり効果ありますわよね。
私、目力ある方ですわよね。
なんでレティシアは、この視線を向けられて笑顔なのかな……。
「それでは陛下。私達はこれで失礼いたします」
玉座の国王陛下に向けて、スカートの裾をつまんでお辞儀した。
陛下は鷹揚に頷いて、手を振って退室を許可される。
レティシアの肩を軽く押して促すと、並んで歩き出した。
「あ、の……」
「今は、凜として、前を向いていなさい」
前を向いたまま、私は妹にそう言った。
「それが、貴族というものですわ」