レティシアの【演説】
「私は、"裏町"で生まれて、母と二人で住んでいました。住む所は、転々としました。母が亡くなってからは……一人ぼっちだった」
レティシアは、"裏町"に住んでいた時のことを語り始めた。
「私が住んでいた古屋敷……"裏町"はどこも似たようなものですけど、ほとんど、廃墟で。暖炉には砂袋を積んで、板で塞いで、隙間にぼろ布を詰めて……風を防ぐんです。窓も板とぼろ布で塞ぐから、朝が来ても暗いままで……」
ごくりと、唾を飲む。
……気が付くと、あたりは静まり返っていた。
誰が知っているだろう。
貴族階級の――誰が。
群衆の中から一人の年配の女性が、ふらふらと演台に近付く。
そして、一段と高い場所にいる妹へ、顔を上げて視線を向けた。
「……レティシア? あんた、本当にレティシア嬢ちゃんなのかい?」
「はい、ヒルダさん。あなたのパン屋で下働きをさせてもらっていた、レティシアです」
彼女は微笑んで頷いた。
「元気にしてたのかい? あんた、お姉さんが見つかったって……」
「はい。……慌ただしく引っ越してごめんなさい。でも、私は元気にしてました」
ざわざわと、動揺が広がる。
なぜ、"裏町"出身の彼女がこんな所に、そんな恰好をして立っているのか。
そして、彼女が名乗った名前は――
誰かが、ぽつりと呟いた。
「【ヴァンデルヴァーツ……"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"】」
このセリフは、シナリオ通りだ。
けれど、血が凍りそうになる。
私が当主を務める家の異名は、恐怖を伴って呼ばれる。
それが筋書き通りだとして。
それでも、今それは、助けにならなかった。
「……母が、亡くなって。家族はみんないなくなって、ひとりきりだと思っていた私には、姉がいました。腹違いのお姉ちゃんです。お姉ちゃんは、ヴァンデルヴァーツ家の当主でした」
初めて会った日の光景が、私の脳裏にフラッシュバックした。
知っていた出会い。定められた出会い。
でも彼女は、私を『お姉ちゃん』と呼んでくれた。
それは台本にない、【公式ゼリフ】でもない、彼女の言葉。
「あの部屋は、寒かった。薪を買うお金なんかなくて。毛布にくるまっても、空気が冷たいから、ぜんぜん温まらなくて。お腹も空いているから、身体の芯まで寒くて。いつまでも、凍えそうで……」
うつむいた。
……私は、彼女を助けなかった。
知っていたのに。
彼女が、暖炉もガラス窓もない部屋に住んでいることは、知っていたのに。
私がレティシアにあてがった屋根裏部屋には、暖炉がない。
怖かったから。
シナリオを変えてしまうことが、怖かったから。
運命を変えないために……と言い訳して。
私は、彼女の苦しみを理解せずに――
「……でも、私はお姉ちゃんと会う前から、お姉ちゃんに助けられてた」
はっと顔を上げた。
「名前は出されていません。……けれど、四年前から配給されている毛布や食べ物は、ヴァンデルヴァーツの私財から出てるんです。この国は、全部は正しくないかもしれない。私達みたいな"裏町"の住人が、貴族のことを、私達のことをなんにも分かってない、冷たくて、非情な人間だって思うのも当然です」
当然だ。――彼女達には、私達支配者階級を恨む、正当な理由がある。
「……でも、配られたもう一枚の毛布がなかったら、私はきっと、風邪で死んでた……」
彼女は、一人の時に風邪を引いたのだ。
……三日間、水だけで寝て治したと言った。
運命は、彼女を助けただろうか。
――何があっても筋書き通りにするために、レティシアを生かしただろうか?
……なぜかもう、そうは思えなかった。
「貴族の人達がやることはたくさんある。……私達は、目に入ってなかったかもしれない。"表"の町が目立つから」
国を支えているのは……"表"だ。
税の徴収さえままならない"裏町"は、この国には貢献していない。……そんな風に切り捨てるのは、簡単だ。
そうしたのはきっと、私達なのに。この国なのに。
「でも、去年からちょっとだけ、毛布や食べ物が増えたと思うんです。もちろんそれでも足りないし、私達が本当に欲しいのは、ただ配られる物じゃなくて、もっとちゃんとした、一冬の薪と食べ物を自分で買える仕事で……暖炉があって、ガラス窓がある家で……」
……見えざる劇作家にとっては、ただの設定だっただろう過去。
でも、彼女の人生は【月光のリーベリウム】が始まってからの、華やかな物だけではない。
見ると、辺りを取り囲む騎士団、そしてそれを率いる騎士団長と王子、医師長も顔を伏せていた。
彼らは、知らなかっただろう。
自分達が心を射止めようとする少女が生きてきた、"裏町"というやつを。
レティシア本人から、それぞれ、少しずつ話を聞いている。
王子として、騎士団長として、医師長として、部下から報告を聞いたりしていたかもしれない。
コンラートはどうなのか知らないが、フェリクスの部下の騎士や兵士には少数ながら"裏町"出身者もいるし、医師団が"裏町"の者を診ることもある。
――でもそれは所詮、そこに住んでもいない人間が、上っ面を眺めただけだ。
私も、含めて。
「――でも、そのためにお金を出してくれた人達がいるんです。コンラート殿下、フェリクス騎士団長、ルイ医師長、王城の衛兵さん達に、騎士団と医師団の人達……」
彼らも弾かれたように顔を上げた。
そして、お互いに顔を見合わせる。
……そうだったのか。
私は……ヴァンデルヴァーツ家は、市民団体の立ち上げに協力し、出資しているだけで、後はあまり知らなかった。
私にとって、レティシアがいなくなった後の"裏町"支援は義理に近かったというのもある。
「"裏町"の生活が良くなっても、なんにも得しない人達が、身銭を切って、助けたいって行動で示してくれた」
群衆の中から、叫び声が上がった。
「こいつらに何が分かる! 欲しいのは施しじゃねえ!」
「もらえるものはもらっておくのが"裏町"の鉄則です!」
レティシアが、貴族らしからぬ理屈でその叫びを一蹴する。
そして声のトーンを落として、ぐるりと見渡しながら言う。
「……王城の衛兵さんも、騎士団や医師団の人達も、そんな楽な生活じゃないですよ。でも、話を聞いたら、協力してくれたんです」
協力してくれたのは、彼女が若くて可愛いのもあると思う。多分。
……正直なところ、『行動の自由』を与えられた妹は、何をしているのかと思っていた。
【攻略対象】を攻略している様子が、なかったから。
けれどきっと彼女は、様々な立場の者と話し、見聞を広め、知識を深め、人脈を繋げ、"裏町"のために――この国のために、自分にできることをしようとしていたのだ。
「私達"裏町"の人間のことを知らない人も多かったかもしれない。……でも、知っている人達がいるんです。薬だって、用意されています」
どこに向かうのかと思っていた話が、筋書きに沿う物に戻ってきた。
「【国民全員分の薬が用意されています。みんなに行き渡るだけの量です】」
ここに繋がるまでのセリフが違うが、それは大事な情報だ。
……でも、この状況で、苦しんできたこの人達に伝わるだろうか。
この国は、"裏町"の……貧民街の存在をよしとした。
それをなくすのには時間と資金が必要で……『あそこよりはマシ』と、多くの者が思う下層階級があるのは、なにかと都合が良かった。
――その不満が溜まり、怨嗟の声が満ちた時、いずれこの国に災いを為すだろうと分かっていて、それでも。
この国は、この人達を放置し続けた。
「……それだって、貴族様が優先なんだろ!? 俺達にだって、あんたの言うような暖炉とガラス窓がある家があって、食いもんがあれば、こんなにも死ななくてよかったかもしれねえ! ……俺達は、いつまでも後回しなんだろう……!?」
血を吐くような叫びだった。
【公式】の演説は、もっと粛々と進む。妹の演説のセリフだけが、テキスト欄を淡々と流れていく。
何を言えばいいのだ?
実際に行き渡るだけの量を用意した。……私にできたのは、それだけだ。
後は医師団の領分で、医師長の采配に期待するしかない。
暴動になるなら、騎士団の領分だ。……ヴァンデルヴァーツ家は、それを止める理由を持たない。
彼女は、何を言うのだ?
私達は、固唾を呑んでレティシアの言葉を待った。
「むしろ、ここが最優先です。――絶対に、誰も後回しになんて、しません。私が、させません」
彼女は、きっぱりと宣言した。
しん……と静まり返る。
私も、口を開こうという気持ちが起きなかった。
……これが、運命の力なのだろうか?
それとも、レティシアの……?
レティシアが、小瓶に入った【ヤマイドメ】の薬を取り出して、掲げる。
きらり、と雲間から僅かに差し込む陽光を反射して、ガラス瓶が光った。
「【ヴァンデルヴァーツ家の総力を挙げて、作られた薬です】。これを国へ提供する条件はただ一つ。コンラート殿下、そして国王陛下は約束しました」
当主である私が知らない情報を出され、混乱する。
「薬を渡す順番は病状によってのみ判断され、身分は判断基準になりません」
目を見開いた。
……そんなものを、通したのか。
そんな条件を、通せたのか。
それだけの力が――彼女に、あったのか。
「それらは、ルイ医師長、そして宮廷医師団が判断します。臨時の病院が、各地に作られます。非常時なので、費用はかかりません」
この疫病を放置すれば、国が傾く。
それは分かっていた。
だから、私は薬を作るための準備を整えていた。
「想定されるあらゆる混乱は、フェリクス騎士団長率いる騎士団が対応します」
……でもレティシアは、それをあまねく人々に届けようとしている。
いさかいなく、争いなく――身分によって順位を付けるのでも、剣をもって従わせるのでも、暴動によって奪い合うような形でもなく。
「私もまた、この疫病に罹りました。この薬がなかったら……死んでいたかもしれない」
誰もが、黙って聞いている。
空気が、変わり始めていた。
「流行病なのに、お姉ちゃんは親身になって看病してくれた。手を握って、優しい言葉をかけて、励ましてくれた」
親身になって看病したのはメイドでは?
私まで倒れるわけにはいかなかったから、やったことといえば、時々様子を見に行って、妹の言うように手を握って励ますぐらいだ。
「この度の疫病は、ヴァンデルヴァーツの敵。この国の敵です」
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"。
詳細は知られずとも――いや、むしろ実態が知られていないために噂が噂を呼び、恐れられている名前。
それは同時に……ある意味では、『信頼されている』とも言えた。
ヴァンデルヴァーツ家は、手段を問わない。……一般庶民、いや、貴族の間でも、噂は『盛られて』いるので、実像を超えて恐れられているところがある。
しかし、ヴァンデルヴァーツが手段を選ばないのは国家に仇為す者に対してのみ――という点だけは、正確に伝わっている。
「お姉ちゃんが私にしてくれたみたいに、私も、できる限りのことをしたい。……みんなが、自分にできることをすれば、あの時はしんどかったねって言い合えるようになるって……私は、信じています」
雲間から、光が差し込む。
丁度――レティシアの立っている辺りを中心に、太陽の光が照らした。
これも、運命の演出なのだろうか?
それは分からないが、レティシアは機を逃さなかった。
掲げられた薬瓶が、先よりも強い光を反射して煌めく。
ああ、使い古された演出だ。たとえば、掲げられた剣に光が反射して――とか。
鏡を使って光を送ることさえある。
それでも、すれっからした私にさえ、それは希望の光に見えた。
「【この国は、誰も見捨てない】」
シナリオ通りの、しめくくりの言葉。
でも、そこに辿り着くまでの演説は全く違う。
これは、レティシアの言葉だ。
……甘い言葉だ。
――甘い、理想論だ。
でも、それがこんなにも正しく聞こえるのは、それが確かに『理想』だからだ。
そうできれば、どんなに。
皆が平等な立場で、それぞれが平和を思い描いた時、それぞれの描く未来図が同じなら……"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"のような家は生まれなかった。
それどころか、貴族も、王家も要らないだろう。
でも、そうではない。
この世に平等はない。この世に完全はない。
この世界は、この国は、そうではないのだ。
……ああ、それでも、信じようではないか。
そんなものを、信じてやろうではないか。
私の可愛い妹が言うのだから。
"裏町"というこの国の底辺に生まれて育ち。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"という、この国の貴族階級に迎え入れられ。
……両方の視点を知ってなお、まだそんな理想を掲げる彼女のことが。
私にはあまりにも眩しく、そして愛おしかった。
私は、知らず知らずのうちに微笑んでいた。
――これから、もっと死ぬ。
疫病ではなく、人の手によって。
一部は、ヴァンデルヴァーツの名において。
――私の命令によって。
露払いは、私がする。
彼女は理想を歩めばいい。
折れず、曲がらず、汚れず、優しい世界を語ってくれれば、それでいい。
義務と忠誠を。
ユースタシアに安寧を。
ヴァンデルヴァーツ家が果たすのはたった一つ、この国の存続。
私が望むのはたった一つ、妹の幸福。
それが矛盾しないなら。
私は心おきなく、そのために自分の全てを使える。
私の人生は、きっとこのためにあったのだ。
ぱち、ぱち……と、控えめな拍手が聞こえた。
……そのきっかけを作ったのが、ヴァンデルヴァーツの手の者だったのか、本当にただの一市民だったのかは、分からない。
ただ、確かに拍手はだんだんと大きくなっていく。
雰囲気もあるだろうが、逆に言えば、それはたとえ一瞬でも、この場の大多数の心が一つになったということ。
妹の演説は、万雷の拍手をもって受け入れられた。
私も続いて、手を叩く。
鳴り響く拍手はこんな情勢だというのに心を浮き立たせ、私の妹は、私が思うよりも大物だったという実感が、じんわりと胸に染みこんでいく。
きっと、全て上手くいく。
全てが終わるまで、後少し。
私の【断頭台】まで、後少し。