"裏町"の広場
今回の疫病に、正式な名前はない。
【月光のリーベリウム】でも【疫病】と語られるのみ。
ただ、実際にはいろんな呼ばれ方をする。
仲の悪い国の名前で呼ばれることがよくある。
そういう呼び名の一つ。
目立って多く聞こえる名前。
"ルインズ風邪"。
現在、復興支援を通じて、数多くの国の人員が入り交じることから、ルインズ公国が槍玉に挙げられた。
革命により一度王家を潰され、再建途上の弱い小国という事情もあるだろう。
革命鎮圧後から各種支援は続いているが、疫病が流行してからは各国共に自国で手一杯で途絶えがちで、生命線は隣国であるユースタシア王国となっている。
かつて、自国産業を巻き込むようにして王家を打倒し、さらにその革命政権も倒れ、結果として他国への依存を強めたあの国は、足腰が弱っている。
ユースタシア王国側としては、火種すぎて抱え込みたくない。もう少し傀儡政け……新しいルインズ公家には、踏ん張ってほしいものだ。
そして、もう一つ。
我が国……特に王都周辺では、今回の疫病が違う名前で呼ばれ始めた。
目立って多く聞こえる名前。
"裏町病"。
王都の旧市街――通称"裏町"は、大陸の中では比較的マシなユースタシア王国の中で、目立って患者が多く、死者も多い。
死体は放置できず、死者は国立の墓地に埋葬されているが、多くが埋葬金を払えないために、個別の墓標さえない有様。
ルイ医師長を筆頭に宮廷医師団は被害を食い止めようと奮闘しているが、状況は日に日に悪くなっていく。
当然だ。あの地域は、公的には"旧市街"――『住人のいない』地区だ。
建物は時々勝手に建て増しされたりしているが、廃屋同然の家も多い。
食糧事情は悪く、もちろん薬など高嶺の花。
冬になって、全体的に流れが悪くなっている。
今にも雪がちらつきそうだ。
このまま雪が降り積もれば……その雪の下に、どれだけの死体が積み上がるか、分かったものではない。
何か、根本的な解決策が必要だ。
そう、例えば。
――飲むだけで治る、疫病への特効薬、とか。
私は、シエルと――レティシアを伴って、"裏町"へ来ていた。
「レティシア。体調は?」
「もう、大丈夫です」
そう言うレティシアは、まだ少し元気がないように見えた。
ただ、生死の境をさまよったことを思えば、確かに大丈夫と言っていいだろう。
あの薬の効果は劇的だった。
生き残った臨床試験の被験者達は、口を揃えて「死ぬほどまずい」と言ったが、それでも、ほとんどが生き延びた。
ソニアをはじめとする、我が家の薬草園に勤める研究員達は、その割合から、これが今回の疫病に対する特効薬であると保証した。
私の最愛の妹もまた、それに救われた。
――ようやく、現物を手にした。
【月光のリーベリウム】のシナリオの中では、とてもふんわりと描かれるだけだった、疫病に対する特効薬。
……これを上手く使えば、大陸を再び戦乱の時代に戻せる。
ユースタシア王国の建国王が夢見て、二代目の王が諦めた"大陸制覇"という覇道を、現実の物にできる。
疫病で弱った国々を、自分達だけ無傷の軍で蹂躙していく簡単なお仕事だ。
さらに、薬をちらつかせての同盟、懐柔――ヴァンデルヴァーツ家の当主として仕込まれた私は、一通りの悪い使い方を頭に思い描ける。
ただ、それは血塗られた未来だ。
そんな未来は、望まない。
そんな世界を、妹に与えたくはない。
となると、この『武器』の使い方は、ごく正当派となる。
一刻も早く、この大陸を疫病の脅威から解放する。
手始めは王都、流通の要所、そして地方へ。
他国には、この機会に恩を売るつもりだ。
この際、無償提供の方がいいだろう。開発にはかなり金がかかっているが、妹の名声の代価と思えば安いもの。
普段税金を納めている自国の指導者達は有効な手を打てず、他国に差し伸べられた手によって――となれば……思わず悪い笑みが浮かぶ。
向こう十年は我が国の地位は揺らぐまい。
この機に諸問題を解決したいものだ。外交は王家の領分で、我が家の領分ではないが、我が家の地位も安泰だろう。
つまり、次期当主たるレティシアの地位も。
ただ、この妄想を現実にするには、一つ一つ解決していく必要がある。
ユースタシアにおける王家の力は強大だが、絶対ではない。
貴族家の思惑は複雑に絡み合い、他国となればなおさら。
そして、我が国の民でありながら……我が国の庇護下にない"裏町"の住人達。
――それら全てに、これを、どうやって届けていくのか。
情けない話だが、私には具体的な方策がない。
そもそも、我が家の領分かと問われると、微妙なところだ。――疫病対策は、王家とその直轄組織である宮廷医師団の仕事なのだから。
特効薬があるのだから、どうにかなるだろうと思ってはいるものの。
……正しさでは、救えない人もいる。
今、この"裏町"に、【月光のリーベリウム】の主要人物が勢揃いしている。
【主人公】。
"救国の聖女"(予定)、レティシア・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
【攻略対象】。
"ユースタシア王国、第一王子"、コンラート・フォン・ユースタシア。
"ユースタシア騎士団、騎士団長"、フェリクス・フォン・リッター。
"ユースタシア宮廷医師団、医師長"、ルイ。
【悪役令嬢】。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ、当主"、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
それと、私と妹の護衛にシエル。
まず、最も患者の多い地域を制圧する。
……そして、誰も口には出さないが、どうせ我が国の上層部は皆、同じ気持ちでいるだろう。――少なくとも私は、最後の臨床試験をするつもりでいる。
無論、我が国の民を救うためではあるが。
運命の歯車が狂えば、私はこの区画を、『なかったこと』にするつもりだ。
騎士・兵士の姿が目立つ。ユースタシア騎士団の揃いのサーコートを身につける騎士達がまとうのは――顔の見えない、全身甲冑。
一応、儀礼用としても使われる。磨き抜かれた鎧はそれそのものが芸術品のような美しさを持っているものだ。
ただ、威厳や厳粛さと共に、どうしようもない威圧感を放っていた。
我が国は大国だが合理的でもある――のか、合理的だから大国へとなれたのかは微妙だが、その合理的精神ゆえに倹約精神も併せ持っている。
つまり、我が国における儀礼用の鎧と戦争用の鎧は、同じものだ。
「……この物々しい警備。あなたの指示?」
じっとフェリクスを見る。
彼はさすがに全身甲冑ではなく、騎士・兵士共用の、兜がない巡回用の軽鎧だ。違う点といえば、腰に吊った剣の柄と鍔の装飾が豪華で、サーコートに刺繍された一角獣の角付き兜に、赤い房が付け加えられているぐらい。
「ああ。……この顔ぶれだ。とても軽装では、な」
「……分かりますけれども」
彼の言う理屈は分かる。
彼は、騎士団長としてこの場の誰も欠けさせるわけにはいかないのだ。
「部下に死ねとは言えん。いざという時には……やむを得ないだろうな」
肝心な部分がぼかされたが、彼の苦渋に満ちた表情が、いざという時に下される命令がどんなものか、何よりも雄弁に語っていた。
嫌な命令だ。
私も考えてはいたが、実際にその命令が下される瞬間を想像してしまうと。
……誰もが、"裏町"を軽く見る。見てしまう。
だが、この場所が未来を決める。
ここは、"裏町"の中でも一際大きい広場だ。
説明会という名目で事前に布告が出ている。王都にいくつかある指定の広場に、王家からの布告役が登壇し、説明……あるいは、一方的に伝達する。
重要度の高い布告の場合、追加で各所の掲示板に張り紙が出され、文字が読める者が読み、他の者に教える。
全員が集まるはずもないが、話は人づてに伝わっていくから、重要事項はまず全国民の耳に入る。
知ろうとしない者は、不利益を被るだけだ。世捨て人を気取りたいなら好きにすればいい。
本番である今日の布告は、まず王都全域に出される。
"裏町"では、ここが唯一の布告場所だ。いつもは存在しない、臨時の布告場所。
フェリクス率いる"ユースタシア騎士団"を駆り出すほど警備が厳重なのは、コンラートとルイが参列しているせいもあるだろう。
そして――私達姉妹だ。
当主である私の方が、今はレティシアより重要だ。
しかし、既に王宮内では、私の妹の名が広がりつつある。
価値が逆転するのは、もうすぐ。
黒い官僚服を着た布告役が、即席の壇上に上がった。
少しルイの着ているコートに似ているが、白地に黒のラインが入ったあちらとは違い、黒地に金のライン、帽子は円筒形だ。
帽子と胸に入れられた紋章も、ユースタシア王国の一角獣となっている。
彼は、集まった群衆に向けて布告を始めた。
「――えー、これよりユースタシア王国の名において布告を――」
「ひっこめ!」
……荒れるとは思っていたが、初手からこれか。