レティシアの覚悟
私は、どこかで安心していたのかもしれない。
自分と妹は『安全圏』にいると。
【月光のリーベリウム】の……ゲームの中で、それぞれの道が描かれる。
妹は、"救国の聖女"と呼ばれ、私は断頭台に掛けられる。
そこまでの道も、おおむね決まっている。
だから。
【公式シナリオ】に記述のない、今の状況は。
これは、【イベント】ではない。
――レティシアが、病に倒れた。
此度の疫病は、風邪によく似た症状を示している。
ほぼ例外なく高熱を出す。咳き込む者が多い。多くの場合、関節の痛みと倦怠感も見られる。
ただの風邪と思われたせいで、各国共に対応が遅れた。
それでも、年寄りと子供を中心に猛威を振るい、健康な若者でさえ時に死に至る、死神の大鎌。
それが今、レティシアに突きつけられていた。
……ゲームでは、こんな展開はなかった。
今は屋根裏ではなく、客間で寝ている。――苦しんでいる、といった方が正しいだろうか。
彼女の人気を何よりよく示しているのは、病に倒れた彼女を、メイド達が献身的に看護していること。
伝染病が流行している状況で、だ。
私ではこうは行くまい。
今、私は、口元に布を巻いた格好で、病床の妹を見舞っている。
「……レティシア」
私は、そっと彼女の手に触れた。
レティシアが、私の手をぎゅっと握ってくるが、その力はか細く、肌は熱い。……以前に、風邪を引いた時より、遙かに熱が高いのがよく分かる。
「お姉様……薬の研究……進んでますか?」
レティシアが、かすれ声で聞いた。
「ええ。……でも」
間に合わないかもしれない。
――賭けになる。
効くかどうか。
そして、副作用や後遺症がないかどうか。
既に『臨床試験』は始まっている。新薬にある程度の効果があるのを確認しつつ……死者が出た。
それが、重症のために治療が間に合わなかったのか、副作用なのかの確認が取れていない。
薬学の分野において、短期間で完全な結果を出すのは難しい。
ヴァンデルヴァーツとて、数百年を積み重ねてきたし、その背景にも"放浪の民"が収集し、実践し続けてきた技術体系が横たわっている。
それら全てを使ってさえ、未知の疫病に対抗するのは容易ではない。何も分かっていないから未知なのだ。
私は、持てるリソースを一点集中した。
全賭け、と言ってもいい。
ヤマイドメの薬が効くという前提で、全ては動いている。
私の当主命令によって。
【月光のリーベリウム】のシナリオではそうだったという、誰にも説明できない理由を、唯一の根拠にして。
レティシアが顔をそらして、背中を丸めて咳き込んだ。
その背をそっとさすろうとしたら、てのひらを向けられた。これ以上近づくな、ということらしい。
――私が倒れるわけにはいかない。それは、分かる。
分かるけれど。
この屋敷のほとんど誰もが思っているだろう。――なぜ妹なのだ、と。
なぜ、病に罹ったのは、姉の方ではないのかと。
……私自身が、そう思ってしまっていた。
レティシアが、荒い息を整えながら、仰向けに戻る。
顔が赤く、さっき手に触れた時の感触からも高熱なのに、汗が出ていない。良くない兆候だ。
それでも、彼女の瞳は、力をなくしていなかった。
「……私も、実験台にしてください」
「……レティシア?」
「間に合わなかったら……ダメなんです」
はっとした。
時間との勝負だ。
ここで、押さえ込めるか。
疫病とだけ戦っていられるかどうか。
「他に薬があるわけでもないし……私に効けば、それが、宣伝材料に……なる」
……背筋が、ぞくっとした。
病に倒れながら、苦しみながら、それでも、自分の体調も――場合によっては命さえ、ただの一要素として正確に判断している。
……ヴァンデルヴァーツ家の次期当主にふさわしい器だ、と心の底から思った。
この子は、主人公だ。
誰もが愛する。応援したくなる。誰もが彼女の言葉に力を感じる。……信じたくなる。
シナリオに守られていなくたって、この子は。
私の妹は。
「……分かったわ。レティシア、あなたを信じます」
信じたくなる。
【月光のリーベリウム】ではなく、私の妹のことを。
妹が、力なくではあるが、微笑んだ。
「――うん。信じて。……お姉ちゃん」
その呼び名を咎める気には、なれなかった。
今そう呼ぶのが、少しでも妹の戦意を奮い立たせるものなら。
レティシアが手を伸ばしてきたので、私も手を伸ばして応えると、お互いに指を絡め合った。
微笑んで元気づけようとして、口元に布を巻いていることに気が付き、指にぎゅっと力を入れる。
レティシアも、思ったより強い力でぎゅっと握り返すと、手を引いた。
それ以上の言葉は要らなかった。
踵を返し、部屋を出る。
拳を固めると、決意と共に胸に押し当てた。
胸に火が灯ったようだ。
――ここで妹の道を終わらせてなるものか。
その瞬間に、ひどく暗い感情が這い寄るように現れた。
物陰から家守が、またたかぬ瞳で、爬虫類特有の縦長の瞳孔で、温度のない目で、私を見つめている。
妹の身を案じる気持ちに嘘はない。
……でも、私は彼女にまだ、【主人公】としての役割を望んでいる。
それが、シナリオ通りで。
それに従えば、最小限の被害で済む。
『だから』。
口元の布をほどいて外すために、固めていた右拳を開いた。
いつか、ヴァンデルガントの酒場で妹をかばって傷ついた時に巻かれた包帯を、その手に幻視する。
それは、幻だ。
私の手に、包帯は巻かれていない。
私の手に、あの時の勲章は、もうない。
ギリギリと骨が軋むような強さで、白布を握りしめた。
疫病が流行の兆候を見せた段階で、妹を屋根裏部屋から移すべきだったのだ。
いや、もっと感染対策に気は遣えなかったのか? 予防は?
……いっそ、閉じ込めていれば。
初めて会ったあの日に抱きしめて、彼女を全ての危険から遠ざけていれば。
そのどれも、私は選べなかった。
私の知っているシナリオには、なかったから。
そっと手を下ろすと、歩き出した。
やることは変わらない。
自分がいいお姉ちゃんでないなんて――なれないなんて――知っていたはずだ。
妹の病を治す。
そして、その事実を武器にする。
やるべきことを、やるだけだ。