【疫病】
ほんの一月で、全てが様変わりした。
ユースタシアの王城へと向かう馬車の中は、少し落ち着く。
――今は、一人だから。
疫病が流行し、儀礼の多くが省略されるようになった。公爵家当主である私が外出の際、御者以外に使用人を連れていないのも、その一環だ。
疫病が流行すると、人は人を信用できなくなる。――相手が病気を持っているかもしれないのだ。
この度、大陸中に流行し始めた疫病は、風邪に似ているが、広がり方と……死ぬ割合が、比べものにならない。
空気が急速に悪くなっていくのが分かるようだった。
重苦しい。息ができない。……空気が汚れているような気がする。
実際に空気が悪いものを運んでくるという話だが、さすがに今感じている空気の悪さは、不安感から来る思い込みだろう。
馬車の窓から外を見ると、皆、口元にスカーフなど、布を巻いている。
これは医師団の指導によるものだが、空気の中に悪いもの……病気の元があるらしい。昔から言われていることではあるが、誰も確かめられていないので、これはあくまで経験則による処置だ。
かつてユースタシアが建国される前、今よりもひどい疫病が大陸中に吹き荒れた時は、道という道に死体が転がり、腐臭がしていたと言う。それを防ぐために口元を覆っていた者の方に生き残りが多かった……という話だ。
誰にでも……それこそ庶民にもできるという意味では、対策として優秀だ。
しないよりはいい、以上の効果が保証されていればよかったのだが。
馬車は、ゆっくりと大通りを通っているのに、人影がまばらだ。
そして、以前に妹と訪れた緑地公園に差しかかり――あまりの人影の少なさに、胸が痛くなった。
こんなにも日常とは、脆かったのか。
市場にも人が少ない。……店が少ないのだ。
かけ声もない。売り手も買い手も、布の向こうでぼそぼそと、小さな声で話すようになった。
何より、市場に商品が少ない。
大陸有数の大市場である、ユースタシア王国の王都の中央市場がこのような有様とは、見る人が見れば目を疑っただろう。
流通が死につつある。
……そして、物の不足に伴い、治安も確実に悪くなった。
小中規模の盗賊が出始め、隊商が長距離移動を控えるようになるという悪循環で、さらに大都市に流れ込む物資が減る。
疫病より多く人を殺すのが、こういう馬鹿だ。
我が国では、討伐と護衛に、騎士団長のフェリクス直々に率いる王国騎士団さえ動員した。
この状況下での狼藉は絶対に許さないという姿勢を打ち出した結果、盗賊自体は減った。……隊商の行き来は、以前のようではないが。
我が国は、マシな方だ。
国によって対応はまちまちだが、他国を締め出した国もある。……多国間交易が一般的になった現在、自国で全てをまかなえるはずがないのに。
できる範囲で、備えはしていた。
飢饉に備えるという名目で備蓄を増やし、『何かあった時に』放出するようにさせていたのは功を奏している。……一時凌ぎにしかならないが。
私が愛し、守ろうとした領地が、国が――大陸の安定が、火にくべられた薪のように、燃え落ちていく。
それでも、私にできることがある。
ある……はずだ。
王城へ到着し、馬車を降りると、以前と同じように、胴鎧に兜を身につけた衛兵達が出迎えてくれた。
ただ、全員、揃いのゆったりとした赤い布を口元に巻いている。見慣れてしまって、王城の衛兵の制服は、元からこうだったような気がしてくるほどだ。
兜に赤い羽根飾りを付けた衛兵長が、自分の口元を指さして示した。
マフラーのように巻いていた長い白布を下ろして顔を見せると、彼は頷いた。
私も頷いて、それで本人確認を兼ねた挨拶は終わった。
案内役に引き継がれ、王城の中へと向かう。
背後からは、噂話も聞こえない。
……あれは、平和な時にだけ許される、余裕だったのかもしれない。
「……打てる手は、あるか」
一通りの報告を黙って聞き終えた後、国王陛下は絞り出すように呟いた。
五十になろうという陛下は、歳の割にお若い。あのコンラートの父なのだからと言ったら順番が逆だが、顔立ちも整っていて、くしゃっとした薄い金髪に深い緑の目と相まって、役者の方が似合いそうなほど。
もちろんこの王が優れているのは外見だけではない。国家を担う重責を常に背負っているが、それに相応しい威厳と……現実感覚もお持ちの王だ。
今は亡き父の同年代、一つ下で、父が生きていれば、こんな風かな、とこっそり思ったりしている。
しかし、出口の見えない疫病に、軋み、悲鳴を上げる大国の舵取りに疲れた今は、十も二十も老け込んで、老王に見えた。
私達がいるのは、王城の中でも王の私室に近い領域にある、比較的プライベートな応接間だ。
密談にぴったりで、私は、謁見の間でなければ、ここに通されることが多い。
たまにお菓子を振る舞ってくださる。
いくら生まれた時から知っているとはいえ、公爵家当主というより、友人の娘のような扱いをされることもしばしば。
初めて、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"を継ぐ者として、この部屋でご挨拶した時も、「口に合えば良いのだが」と微笑みながら、宮廷における国賓向け最上級グレードの茶菓子(ヴァンデルヴァーツ調べ)をお出ししてくださった。
さすがに毎回国賓向けでこそないが、かなり好みを把握されており、そのラインナップといえば、もしや、ヴァンデルヴァーツ家に頼らずともこれぐらいの情報は手に入るという牽制か? とすら思うほど。
……父とどういう関係だったのか、分からないが。
私はこの部屋に、当主になるまで通されたことがない。父とはどんな会話をしていたのかも知らない。
もちろん、毎回お菓子を頂くだけではなく、国政に関して突っ込んだ相談もされるし、当主として信頼されている……はずだ。
特に、このような状況では。
疫病に立ち向かうとなれば、まず第一に宮廷医師団だが、それだけではどうしようもない。
我が家の情報網、そして毒に関する知識。そのどちらも、このような時には貴重な物だ。
私は、これが人の手によるものではないと断言した。毒ではなく、病であり、人の手に余る物だと。
……【月光のリーベリウム】の知識がなければ、私は最初に、これが人為的な厄災である可能性も考えただろう。
疫病を武器に使おうと考えた者達はいるのだ。――我が家も、その家の一つ。
そして、病は制御不能な物だと諦め、それを徹底的に潰す側に回ることを選んだ歴史がある。
ゆえに、対応は病気一本に絞られた。
「陛下。現在はまだ明言できる段階にありませんが」
前置きをして、陛下と目を合わせる。
「打てる手が、あるかもしれません」
「まことか……!」
陛下の表情が、ぱあっと明るくなる。
「明言できる段階にありません」
情報源は【月光のリーベリウム】のシナリオ……恋愛物語だ。
私が、もし運命が変わればと思う一方で、変わりようのない強固なものであってほしいと思っているのは。
もしも中途半端に運命が変わってしまえば。
【疫病イベント】が起きて、しかし解決策が違っていたり、現実では物語のように上手く行かなければ。
あまりにも、悲惨なことになるから。
「……ただ、妹が、気になることを申しておりました。過去の事例が参考になるかも知れない、と」
本当は、妹は申していないが。
『まだ』。
私がこれを聞くのは、シナリオ上、少し先の話だ。
……が、根回しをしておくに越したことはない。
「妹? というと、姉妹仲が良いと噂の」
「どこで聞かれたのですか、そんな噂」
どこ由来だその噂は。
「ああ、いや。今はどうでもよいことであったな。それで、どのような事例が?」
いや、どうでもよくな……どうでもいいのか。
確かに陛下の言う通り、今はもっと重要なことがある。
「まだ精査しておりませんが、あれでもヴァンデルヴァーツの血族です。耳を貸す価値はあるかと」
レティシアの株を上げるべく売り込んでおく。
陛下が、ほんの少し笑みを浮かべた。
「姉妹揃って、我が国のために働いてくれるとは、頼もしい限りだ」
いや、セット商品ではなくて、レティシア単品でお願いします。
「それでは、陛下。私はこれで」
「うむ。吉報を期待しておるぞ」
生気が戻り、生き生きとした顔。出口の見えない暗闇に光が差したように感じていらっしゃることだろう。
この期待に応えられると良いのだが。
そして、それを差し出した私の妹の地位は、盤石となる。
……ただ、ふと、シナリオを辿る上では気にならなかったことが、今さら気になってきて。
陛下は、私の父と、生まれた時から一緒だった。
それこそ私とコンラートのようで、かつ、私達のように不仲という話も聞いたことがない。……むしろ、歳が近いこともあって、友人のようであったとさえ聞いている。
ヴァンデルヴァーツ家を重用している、という対外向けのアピールだったのかもしれないが。
その娘であるというだけの私は、当主になるまでは、陛下ときちんと話したことはなかった。
それでも私は、この方に臣下として仕えてきた。
今の私より二十年ほど多く経験を積んでいた父と比べられると辛いが、使える駒だとは思っている。
【月光のリーベリウム】のシナリオの中の国王陛下は。
どんな気持ちで、私に断頭台行きを告げたのだろうか。
そして、今ここにいるこの人は。
どんな気持ちで、私に断頭台行きを告げるのだろうか。
……そして、この人の信頼を、心地よいとさえ思った私は。
――どんな気持ちで、ゲームでは描写されなかった断罪の言葉を聞くのだろう?