迫り来る災厄
幕間が、終わった。
メインシナリオには絡まない、つなぎの時間。
シナリオを踏み越えたアドリブさえ許される、穏やかな一時だった。
ささやかで、傲慢な夢を見ていた。
妹が、あまりにも可愛いから。
レティシアが、あまりにも懸命なものだから。
【月光のリーベリウム】のシナリオとは違う流れを、感じていたから。
それでも、備えないわけにはいかなかった。
本来なら知るはずがない情報を、知ってしまったから。
常に最悪を想定せよ。リスクとリターンの釣り合いを取り、少なくとも最悪は避けよ。
それが鉄則。
領民の生活に責任を持ち、国政にさえ影響力を持つ大貴族としての使命。
義務と忠誠を。
ユースタシアに安寧を。
私が生きてきて、死ぬべき理由。
公爵家に生まれた。次期当主として教育された。
誰もが私にそれを望んだ。
私自身さえ。
先人が守ってきたものを、受け継いだ。
それは、私の誇りだ。
その上で、ささやかな夢を見た。
この世界で、妹を可愛がりながら生きていたかった。
そんな、傲慢な夢を見た。
我が家は、交易に適した良港も肥沃な穀倉地帯もないとはいえ、広大な領地を有している。
莫大な財産と家の格を背景に、御用商人には甘い汁を吸わせている。
民にも恩恵があることだし、私腹を肥やすためでもないが、結局は自分の領地。自分の持ち物だ。
私が清廉であったことも、潔白であったこともない。
より良い世界を求めた者達を、騎士の剣と騎馬の蹄で蹂躙せよと命令した。
"裏町"一つなくせない。そこに妹がいると、知ってさえ。
私は、常に清潔な上等の仕立て服を着て、領地の特産物チェックも兼ねるが、はるばる産地から運ばれた豪華な食事をして、ユースタシアでは一部の貴族にのみ認められた私有の温泉に浸かり、綺麗な身元であると確かめた多数の使用人にかしずかれ、手入れの行き届いたベッドに寝ている。
その一つさえ、持たぬ者が多いというのに。
この国に害を与えると判断した人間を殺せと命令しておいて。
自分達の利益にならない者を放置しておいて。
自分だけはその論理の外に置こうなど、傲慢というほかない。
貴族には貴族の苦労があるが、そんな悩みは、なんとまあ贅沢なことか。
私が受け継いだのは、平和な時代。
備えは怠れない。爪も牙も、常に研ぎ続けなくてはいけない。
――けれど、国境に兵を張り付かせる必要も、逆に他国に出兵するために領軍を召集されることもない。
そんな時代がずっと続くのだと、心のどこかで思っていた。
ヴァンデルヴァーツが目を閉じぬ限り、ずっと。
私が努力すれば、かつて築かれた平和を守れると、思ってしまっていた。
それはひどく傲慢で、儚い幻想だったらしい。
それでも。
これまでとこれからの私の活動が、采配が――成果が、何一つ、誰にも評価されないとしても。
それでも私は、ヴァンデルヴァーツ家の当主だ。
ヴァンデルヴァーツの仕事に変更はない。
義務と忠誠を。
ユースタシアに安寧を。
何度でも繰り返そう。
怯える心を、叱咤するために。
止まりそうになる足を、前に進めるために。
命を惜しんで道を変えられるはずがない。――変えていいはずがない。
そうしたら、妹に渡せる物さえなくなる。
彼女が受け継ぐべき物だ。彼女が手に入れるべき物だ。
【疫病イベント】が、始まった。
恋愛物語で、一度ならず見た展開だ。
主人公やその相手役は国のお偉いさんで、国家規模の災厄が訪れる。
隣国との戦争であったり、地震であったり……疫病であったり。
それを解決してハッピーエンド。めでたしめでたし。
物語の中で、紙の上で何人が死のうと気にしたことなどなかった。
でも、私が受け取る報告書の上での死者数は、気にしないではいられない。
まだ、『兆候がある』という段階だ。
多くは、気付いてすらいない。
秋が深まりつつある今、疫病……というか、病気は別に珍しくない。医師団は毎年のように戦っているし、我がヴァンデルヴァーツ家にとっても、ある意味では薬とその原材料が売れる『かき入れ時』だ。
喜ぶことはないにせよ、なくせないものなら、その被害を軽減する手助けをし、ついでに懐も潤うようにするだけだ。
でも、私は知っている。
ここで、この疫病の勢いが止まらないことを。――止められないことを。
「クソシナリオめ……」
吐き捨てるように呟いても、心は楽にならない。
窓のない部屋の執務机で、私は一人、机に置かれた大陸地図と、ぶちまけるように広げられた報告書の海の中でもがいていた。
出口が見えない。いや、まだ、始まってすらいない。
一人では、どうしようもない。
私は、【月光のリーベリウム】のシナリオを呪った。
あれは、恋愛物語だ。――疫病の描写に割かれる尺が、少ない。
教えろ。
何人が死ぬ? どこで起きた? 明確な予防法は?
……誰も病の恐怖が身に染みていない状態で、その疫病を鎮める方法は……?
教えて。
あれが、予言の書なら良かった。
託宣が記され、その通りにすれば誰も傷つかないような、奇跡があれば。
だから私は、運命にすがった。
せめてこれを、マシな形で収められるように。
物語の主人公が、綺麗な解決策を提示して、めでたしめでたし――そんな、頭の悪い結末になるように。
でも、まだ何もできない。
この段階で、できることは何もない。
ヴァンデルヴァーツ家は所詮一貴族だ。
それはもちろん、ユースタシア王国の領土の一割を有し、王国内の地位は高く、影響力も大きい。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の名で呼ばれているのも、伊達ではない。
それでも我が家が有する力は、噂されているより遙かに弱い。
今、この国が平和であるのは、我が家が人知れず暗躍し、反乱の芽を摘んでいるからではない。たまには、そういうこともあるが。
王家による法の支配。
王国騎士団を筆頭にした王国軍の武力。
医師団による数々の施策。
そして他の貴族家の忠誠と協力。
――それら全てが、ユースタシア王国を大国たらしめている。
私に、それらを束ねる力はない。
突き詰めれば、我が家は情報を集め、それを元に提言するだけだ。
昔は暗殺も日常茶飯事で、今でもその選択肢は持ち続けていて、毒を中心に薬学にも秀でるが、口さがない者は我が家を片田舎の薬売りと言う。
熊用の毒でも盛ってやろうかと思う物言いだが、侮られていた方が都合がいいこともある。
我が家は大貴族であり、力ある家だ。……だが、万能ではない。
そんなことは、当主である私が一番よく知っている。
万能でこそないが、分かる。分かってしまう。
国内外の"影"による情報が、それぞれの地区の担当者、そしてシエルによる選別を経て、私の元に届く。
選り抜かれたそれらが、雄弁に語る。
そして私の知る【月光のリーベリウム】のシナリオとあわせて考えれば……災厄が来るのは、間違いなかった。
間もなく、誰もがかつての日常を懐かしく思うだろう。
この疫病を止められなければ、きっと大陸地図は書き換わる。体力のない小国は倒れ、大国さえ――我がユースタシア王国さえ、もしかしたら。
一つ間違えれば、戦乱の時代が再び来る。
まだ動ける余裕がある内に、ある所から奪おうと、戦いになる。
そうすれば、都市機能も流通網も……国家機構も失われ、おそらくは、疫病よりも多く人が死ぬ。
世界が壊れる音が、聞こえるようだった。
「っ……」
私は、報告書が散らばった机に両肘をついて、目元を両手で覆った。
断頭台にでもなんでも、行ってやるから。
だから、誰か。