終わりの始まり
玄関ホールに敷かれた絨毯の上でしゃがむと、背中のレティシアを下ろした。
彼女はよろけ、私はその手を取って支える。
そのまま立たせると、シエルの方に、突き飛ばすように押しやった。
私の最も信頼する当主補佐は、妹を受け止めながら、静かに聞いた。
「なにかございましたか?」
「話すようなことは何も」
てっきり護衛はシエルかと思っていたが。
今日の様子を、誰に見られたのか。
……誰でもいいか。
「私は、部屋に戻ります」
ケープを翻すと、未練を切り捨てるように踵を返し、背中を向ける。
シエル以下、使用人達は、全てレティシアの周りにいる。
きっと、妹の味方になってくれる。
「――お姉様!」
振り返らない。しかし、足を止めた。止めてしまった。
「その、今日は、ありがとうございました。私は、楽し――」
「楽しかった、とでも?」
ヴァンデルガントの視察の一幕を繰り返すように、私は振り向かないままに、妹の言葉を鋭く遮る。
「私は、楽しかった!」
それでも妹は言葉を続けた。
「本当に今日は楽しかったです。貴族として相応しくなかったとしても、お姉様と一日を過ごせて、楽しかった。また何度でも、あんな風に過ごしたいって……思います」
私だって。
毎日が、今日みたいなら。
それはどんなに。
ちょっと心臓はもたないかもしれないが。
「また、いつか」
妹の短い言葉が、心を抉る。
何を言えばいいのか、もう、分からなかった。
だから、呟くように、オウム返しにした。
「……また、いつか」
約束が、積み重なっていく。
『いつか』を期待してしまう。
「私も、それなりに楽しめたわ」
「お姉様……!」
妹が、顔をほころばせたのが、目に見えるようだった。
「――義務と忠誠を。役割を、果たしてみせなさい」
振り向かないまま、玄関ホールの大階段を見上げる。
そのまま、歩き出した。
これで、終わりだ。
見えもしないのに、冷たい口調を受けて、妹の笑顔が消えたのが分かる。
「……はい、お姉様」
私は、妹の明るい声が好きだ。
沈んだ、レティシアの魅力の千分の一も出ていないような暗い声に、心をかき乱される。
私は、妹に罵倒されるのは好きだが、沈んだ声を聞くのは嫌いらしかった。
それでも、もう、言うべきことはない。
階段を上りきって曲がると……妹は、私を見ていた。
視線を切るように角を曲がり、部屋へ向かう。
自室に入ると扉を閉めて鍵を掛け、間違いなく施錠したのをドアノブをガチャガチャとやって確認する。
部屋のランプは灯されていた。間もなく帰宅するからとシエルが手配したのだろう。彼女なら、それぐらいはやってみせるはずだ。
そんな細かい所――それを当たり前に受け入れているところに、ふと、私は貴族なのだなと思う。
庶民なら、油がもったいないからと、そんな真似はすまい。
私は、貴族なのだ。
ベッドサイドで、ケープを脱いだ。
ふと、短い草がついているのに気が付いて、手に取る。……芝生に、寝転んだ時のものか。
「……私も、楽しかった」
ぽつりと呟く。
「本当に今日は楽しかった。当主として相応しくなかったとしても、あなたと一日を過ごせて、楽しかった。また何度でも、あんな風に過ごしたいって……思う」
抑揚のない声で、妹が言ってくれた宝物のような言葉を繰り返す。
まるで、泥を塗りたくるように。
芝生の草を、思い出の欠片を、指先ですり潰すように折り曲げ、床に放った。
メイドが掃除するだろう。
今日の思い出が染み込んでいるようなケープも、ベッドの端にそっと置かれている、脱いだ物を入れる籠に乱暴に放り込んだ。
足置きに腰かけて靴紐をゆるめると、脚を振って靴を脱ぎ捨ててから、ベッドに上がる。
そして、天蓋を閉じた。
真っ暗に近い、くらやみの中で一人、ベッドに倒れ込む。
掛け布団を上げないままに寝転んで、枕に頬を寄せると、冷たい。
眠くはない。……よく、寝たから。
でも、寒かった。
思わず腕をさする。そうすると、今日妹をエスコートするために掴まらせていたのが、まるで幻みたいだった。
頬を預ける枕は、妹の膝枕のぬくやわこさを知ってしまった今となっては、あまりに頼りない。
――ほころびを、感じていた。
物語が、私の知っているものと、少しずつ違っているような気がする。
妹が【攻略対象】達と交わしている会話の内容は分からないが。
それでも、あらすじを語るなら、同じになる程度に収まっている。
少し、姉の描写が増えるだろうか。
妹の心根の清らかさ、健気さは変わらないだろうが。
まだ……引き返せるのだろうか?
胸ポケットごと懐中時計を、ぎゅっと握りしめる。
いくつかの【イベント】に関しては、それが起きているか、自信が持てない。
そして、これから起きるのかどうかも。
……起きなければ?
とんだ道化だ。私が妹にしてきた意地悪に、意味がなくなる。
それでも私は当主として、来るかもしれない災厄の可能性を無視できなかった。
恋愛物語の重石。
主人公に与えられる試練。
【主人公】にしか、解決できない。
過ごしてきた日々にちりばめられたヒント。
【攻略対象】との間に生まれた絆。
"裏町"出身の貴族という唯一性。
私ではダメだ。力をもってしか、犠牲を許容する形でしか、事を収められない。
ご都合主義の災厄。
それが、起きなければ。
もしかしたら。
「……アーデルハイド様」
ノックと共に、シエルの声がした。
「――今、行くわ。待ちなさい」
身体を起こして、天蓋を開けると、さっきの手順を逆にするように靴紐を結び、今度は壁に掛けられた上着を着る。
胸に家守の紋章が刺繍された、当主としての装いを身にまとう。
懐中時計に外していた銀鎖を繋ぎ直し、胸ポケットに落とした。
絨毯を踏みしめながら扉へ向かう。
予感がしていた。
運命に、嘲笑われたような。
ぐっ、と覚悟を決めると、解錠して、ドアを開ける。
いつも通りメイド服を着こなしているシエルを迎え入れた。
「お休みでしたか?」
「少し横になっていただけよ」
めざとくベッドの天蓋が閉じられていることに気が付いたシエルに向けて首を横に振ると、続きを促す。
「ヴァンデルガントよりの報告が届いております。……それに関して、お話が」
「いいわ。執務室で聞きます」
シエルが鍵を閉め、共に隣室の執務室へと向かう。
父は書斎のようにも使っていた。本棚を背後に、重厚な木製の執務机が鎮座する重苦しい部屋だ。
こちらには、防諜を重視したせいで窓がなく、どことなく息苦しい。入り口は二つあるが、一つは当主の私室だ。通風口も独立しているし、当然鉄格子がはまり、人が通れるような隙間はない。
この館で最も堅牢で……どこにも行けない、行き詰まりのどん詰まり。
時々、貴族物の小説や演劇で、当主の私室に隠し通路が設けられたりしているが、私はそんな、いつ暗殺者が来るか分からないような部屋で寝る趣味はない。
シエルがランプを点けてから、扉を閉める。
これで、ここの話はどこにも漏れない。
執務机に着くと、机に肘を突いて、両手を組む。
「シエル。……悪い話かしら」
いつも歯切れ良く、明確に、誤解なく伝えてくれる彼女にしては珍しく、シエルは躊躇う様子を見せた。
「はい。……その、これは推測です。重きを置く根拠はありません。強いて言えば、勘のようなものになります」
「あなたの勘なら信じるわ。――報告なさい」
「……疫病が流行する兆候があります」
【疫病】の言葉に、私は重いため息をついた。
【疫病イベント】。
……小悪党の腹違いの姉がしてくる意地悪程度に留めておけばいいものを。
運命は、再び物語を始めた。
私は、断頭台を目指す。
けれどその前に、ヴァンデルガントの領主として――いや、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"当主として、やるべきことがある。
……後のことを気にしなくていいのだ。
死神が大鎌を振るうというなら、私も大鉈を振るうとしよう。
今回ばかりは、汚名を恐れる必要はないのだ。
私には、妹がいる。
ヴァンデルヴァーツ家の、爵位継承権第一位。
立派に育った、公爵家の後継者が。
それでも、レティシア一人に任せてはおけない。
「万が一を考えると、無視はできないわね。以後、最優先で報告なさい」
私は、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主で。
あの子の、お姉ちゃんだから。