背負ったもの
我が公爵家の至宝たる妹に、じとーっとした視線で睨まれるのも新鮮だ。
王子や騎士団長は睨まれたりもしていたが、あいつらこんないい思いをしていたのか。代われ。
……いや、違った。
私の立ち位置は、そこではない。
いつかの、地方の小劇場でのこと。
あれ、この演目、あなたの立ち位置そこじゃなくない……? となった、喋りながら歩きすぎた演者。
その彼女を、同性の共演者が、初見の客にはそれと分からず、いや、筋を知っていても実はこういうアレンジなのかもしれない、と思わせる絶妙なアドリブでフォローした一幕が思い出される。
付き合いでの演劇鑑賞だったが、その瞬間を見られただけでも価値があったかもしれない。
私も、たまに立ち位置を間違えている気がするが、私には愛をささやきながら手を取って、踊るように本来そうあるべき立ち位置に戻してくれる共演者は、いないのだ。
私は、自分の足であるべき場所に戻る。――戻ってみせる。
半身を起こしたレティシアに、声をかける。
「今度こそ立てるわね?」
「はい……」
生まれたての子鹿のように、ぷるぷると震えながら立ち上がるレティシア。
差し伸べた手に掴まりながら、時折、かく、かくっ、と、こんな虫いた気がするな、という妙な動きをしながら、たどたどしく歩く、ヴァンデルヴァーツ家の至宝たる爵位継承権第一位。
ダメだなこれは。
私は【月光のリーベリウム】の【悪役令嬢】。つまり、主演の不甲斐ないところをフォローする役割を与えられた共演者だ。
立ち止まると、手を誘導するように引きながらしゃがんだ。
妹も崩れるようにしゃがみこみ、目線が合う。
「……お姉様?」
「帰るのに何時間かけるつもり? 見ていられないわ」
妹がうつむく。
「――どうすればいいか、分かるわね」
「……はい。護衛の方をお呼びください。後から帰ってまいります」
あれ。
妹の判断が、当主の私より理性的だな。
ここからどう持っていけばいいか迷いつつ、強引に進めることにした。
手を振り払う。
うつむいたままの妹に、しゃがんだまま背を向けた。
「ほら」
「ほら?」
妹が聞き返す。
察しの悪い妹だ。
振り返ると、なるべく無表情かつ、なるべく冷たい口調で告げた。
「おぶさりなさい」
「おぶ、さり……はっ、えっ!?」
目を白黒させる妹。
私は無表情を崩さない。崩していないつもりだ。多分。
これが正しい判断なのか分からないが、考えてみれば、私に繊細な判断が必要な役を割り振る方が悪い。
つまり、運命が悪い。
「えっと……よろしくお願いします……?」
公爵家当主の背中に乗る際の言葉として、適切なのかいまいち分からない声かけと共に、妹がよろよろと僅かな距離を詰めて、私の背におぶさる。
ぎゅうっ、と背中に当たる感触は予想していた。
しかし、逃げ場がない状態で押しつけられるそれの破壊力は、私の予想を超えていた。
さらに立ち上がろうと力を入れるとまた力の掛かり方が変わってああもう。
「あっ、えっ……重かった、ですか?」
ぐっ、と力を入れたきり動きを止めた私の様子がおかしいことに気が付いたレティシアの、ささやき声が耳をくすぐる。
さっきの私はなぜこうしようと思ったのか。
「平気よ」
それは分からないが、この子一人背負えないで、お姉ちゃんを名乗れない。
実際のところ、身長は私が上だし、かつて騎士の練成課程に合格したのは伊達ではない。
なので、妹を背負って屋敷まで歩くのに問題はない。
芝生を出て、遊歩道を歩き、もうサンドイッチの移動式屋台がないテーブルとベンチのそばを通り過ぎ、公園の入り口を、行きに躊躇ったような時間は掛けずに、あっさりと出た。
一度通った、知った道だ。
私が歩いている、運命に舗装された道もまた、そのようなもの。
ただ、こんな【イベント】は知らない。
妹が姉を膝枕して、足がしびれて、背負われて帰るような……そんな、ほのぼのとした一幕は。
これがどういう位置付けなのか、分からない。
影響が分からない、未来を読めない選択肢は、選びたくなかった。
それはリスクだ。そして公爵家当主が、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の名を持つ者が道を間違えれば、そのツケは王国全体に――あるいは、大陸全体に降りかかる。
分かっている。
分かっているのに。
それでも私は、こうしたかったのだ。
私が【悪役令嬢】だからではなく。
この子が【主人公】だからでもなく。
ただ、私はこの子のお姉ちゃんで、この子は私の妹だから。
公園を出てすぐの小さな広場で、数台の辻馬車が並んで客を待っていた。
それを見たレティシアが呟く。
「……あ、辻、馬車……?」
しまった。
そこに気が付いたか。
こころもち足早にそこを通り過ぎる。
「…………無駄金を使わせるつもり?」
「いえ、そのようなことは」
沈黙に耐えられず口にした言葉に、妹がふるふると首を横に振るのが分かった。
「じっとして。歩きにくいわ」
「はーい……」
妹が肩に頬を寄せてきた。
いい感じに体重を預けてきたので、歩きやすくなった。
歩きやすくなったけど。
なった、けど。
なんていうか、こう。
妹が、私に密着して、身を委ねてきて。
私は、信頼していない相手にこんな体勢になるとすれば、首を絞め落としに掛かる寸前だけで。
仲良し姉妹みたいで。
信頼の証とさえ思えて。
この、私が渡された台本にない一幕が、愛おしくて。
大通りの店は、ランプを灯し始めた。
レストランや酒場はこれからがかき入れ時だ。
けれど、妹と寄った本屋のショーウインドウには、カーテンが引かれていた。
物語の幕が閉じるまで、あと一息。
ヴァンデルヴァーツの屋敷がある区画に近づくにつれ、人影がまばらになって、人の気配がなくなっていく。
王都がまだ計画都市と言えた頃の名残、いくつかの温泉が湧くことから名だたる貴族家が居を構え、今に至る――いわゆる高級住宅地だ。
屋敷が近所なだけで、どこの家とも仲良くないのだが。
ちなみに王城は、水量の豊富な井戸があり籠城に備えているが、ユースタシア王国は一度として王城まで侵攻を許していない。
戦争用に築かれた城なのにもったいないな、とも思うのだが、出番がない方が良い設備もあるものだ。
「これは……アーデルハイド様。レティシアお嬢様。お帰りなさいませ」
門番が、私の帰宅にいち早く気が付き、門を開けた。
「手が塞がっているの。玄関を開けなさい」
「はっ」
門番はきびきびと命令に従い、重厚な木製扉を開ける。
「ご苦労様」
私が行く先の扉は、全て開けられる。
そんな風に、なっている。
いや、なっていた。
その代わり、自分一人で道を歩く自由さえない。
そういう風に生きてきて、そういう風に死ぬことしか、思い描けない。
シエルは、私がどんな風にでも生きていけるように教えてくれた……と、思う。そうなんじゃないかな。きっと。
私は、領軍騎士、兵士、酒場のウェイトレス、燻製工場の下働き、猟師、特に熊猟師――そのどれでも、生計を立てられる気がする。
それでも、私はそのどれでもない。
「お帰りなさいませ、アーデルハイド様」
そのシエルを筆頭に、メイド達が玄関ホールで出迎えてくれる。
皆、両手を重ねて揃え、深々と頭を下げて、礼をする。シエルは指の先まで完璧で、他の者達はまちまちだ。それでも公爵家の使用人として、礼儀に則って、私を迎えるために礼をする。
当主としての私に向けて。
――私は、ヴァンデルヴァーツ家の当主だ。
そう生きると決めた。
そう生きると、決めてしまった。
妹の存在を、知る前に。
私が、自分のことを、指先から骨の髄に至るまで、お姉ちゃんという生き物だと分かる前に。
私はもう、道を選んでしまっていた。