ウォールリザードの目覚め
頬を冷たい風が撫でた。
しかしもう片方の頬には、ぬくやわこいものが触れていて、心地よいまどろみを提供してくれていた。
ここがどこで、自分が誰かも忘れてしまいそうな、穏やかな目覚め。
できるなら、いつもこんな風に目覚めたい。
時計塔の鐘が鳴った。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ……。
……六つ?
ばっと、跳ね起きる。
「ん゛っ……う゛う゛う゛~っ……!?」
それと同時に、なにやら悶える声が聞こえた。
視界はまだ白く霞んでぼんやりとしながらも、意識は急速に覚醒していく。
先ほど声が聞こえた方に目を向けると、レティシアが、ぎゅっと目を閉じて天を仰いでいた。
今日は妹とのお出かけ中で、一緒に緑地公園に来ていて、昼食を食べた後、芝生で膝まく……睡眠補助枕の体験会をして、私は少し寝て……。
『少し』寝て……。
辺りを見回すと、薄暗く、肌寒く、その雰囲気は完全に夕暮れのそれだった。
「……レティシア、あの……時計、見てもいい……かしら?」
「あ、はい……どうぞ……」
力のない笑顔。
胸ポケットを探り懐中時計を取り出すと、パチンと蓋を開けた。
そしておそるおそる、祈るような気持ちで文字盤を見る。
六時。
さっきの鐘の音は、幻聴じゃなかった。
やらかした、という気持ちでいっぱいになりながら時計の蓋を閉じると、胸ポケットの上で手を離し、すとんと落とす。
妹をどこに連れて行こうかと、色々考えていた。
妹がどこに連れて行ってくれるのかと、楽しみにしていた。
その全てが、なくなった。
今日が、最後だったのに。
もっと、一緒に居たかったのに。
それを全部、覚えていたかったのに。
「……どうして起こさな……起こしてくれても、よかったのに……」
思わず恨み言を言いかけ、やめた。
シナリオの流れからすると、今頃は嫌われているべきだろう妹の膝の上で五時間も熟睡したお前が悪いのだ――という、至極当然のことに思い当たったからだ。
レティシアが、口元に手を当てて、ちょっと目をそらす。
「それが、そのー。よく眠っていたので、なんか起こすのがしのびなくて……」
うちの妹は気遣いのできるいい子だなあ……。
「……家へ、帰りましょう」
立ち上がると、スカートを払い、ケープを翻し、草を払う。
しかし、妹は立ち上がらなかった。
「どうしたの。立ちなさい」
妹が、困ったような笑顔になる。
「膝まく……睡眠補助機能付き枕の話なんですけど。重大な欠点が発覚しまして」
早口になるレティシア。
言っている意味が分からず、内心で首を捻る。
「お姉様はよく眠っていらしたので、枕としての本分は果たしたと確信していますが、その代償とでも言いましょうか、ふとももとふくらはぎとくるぶしと足の甲の感覚がほぼ死んでいて」
あっ……。
妹の言わんとすることを、全て察する。
一時から六時の今まで、私はあろうことか最愛の妹の膝を枕に熟睡し、寝こけていた。
その間、妹の膝は私の頭の下にあった。
そして、人の頭とは、意外と重い。
五時間、そうしていれば?
しびれるに決まっている。
予定にない意地悪をしてしまった罪悪感でいっぱいだ。
同時に、寝起きに聞こえてきた奇声にも納得がいった。
ギリギリの状態で保たれていた均衡が、私が動いたことで崩れたのだろう。
「立てる?」
「ちょっと……無理そうです」
頷いた。
「そう。なら、荒療治になるわね」
「はい?」
私は彼女の足下にひざまずくと、彼女の脚に、スカートの上から触れた。
「んっ」
艶やかな声にどきっとする。
それは聞かなかったことにして、折りたたまれた脚をぐい、と伸ばし、揉みほぐしていく。
「や゛あ゛あ゛あ゛~ッ……!」
艶っぽさはどこにもない、発情期の猫の喧嘩かと思うような声で、抑えた悲鳴を上げる妹。
背筋がぞくっとした。
……もっと聞きたい。
ぎゅっと目を閉じて、口元をわなわなと震わせて頬を染める妹の表情が、私の心の中の、普段は理性で抑制している部分をくすぐった。
まだ死んではいない理性が、か細い声をあげたような気もするが、何を言っているか聞き取れない。
しかし、何を躊躇うことがあるというのか。
私に求められている役割とは、いつも妹に優しくて、妹の言うことを微笑んで受け入れるような、そんな『いいおねえちゃん』だったろうか?
――そうではない。
私は、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"当主。
そして【月光のリーベリウム】の【悪役令嬢】。
妹に意地悪をする立場だ。
いつもは重荷に感じているこの立場が、今は背を押す風のように感じる。まるで空を自由に舞う翼が生えたようだ。
悪役令嬢とは、意地悪という名目があれば、演者の裁量の範囲内で、妹に何をしてもいいということではないだろうか。
姉のために体を張って睡眠補助機能付き枕になった妹をねぎらうこともなく、己の欲望のために、しびれきった脚をおもちゃにする――よし、名目が立った。
瀕死の理性がまた何かを言ったような気もするが、残念ながら聞く耳を持たない者に聞こえるほど、理性とは声が大きくない。
微笑んだ。
――いや、口の端をつり上げるようにして、笑った。
妹がいると知ってから、それまで半ば惰性で演技していたのを見直して、磨きを掛けた悪役顔だ。
「直接いくわよ」
「直接?」
スカートの中に手を入れると、素足を、先ほどよりしっかりと揉み込んだ。
「お姉様。ちょっとまっ、待って! 一度やめて。休憩。休ませっ――う゛あ゛ああああああ」
言葉の途中で、両手で顔を押さえて悶える妹。
すべすべの脚に触れるのが楽しいのと、そういう声も、自分が妹に出させていると思うとなんだか胸が温かくなって、妹の一度手を止めてという要望を聞く必要性をまったく感じない。
意地悪な姉の素質がある。
――そうしていた時間が、いったい数十秒だったのか数分だったのか、私にはよく分からない。
抵抗しても無駄と悟ったのか、妹が口元を両手で押さえ、目を閉じてたまに頭を左右に振って悶える姿は、私にとっての【イベントスチル】に等しかった。
時間も立場も忘れるような、楽しい時間だったと言っていいだろう。
……が、しかし。
レティシアが、とろんとした目で私を見上げ、口元に当てていた手を離した。
「っ……く、はー……は――……っあ、終わ、り、まし……た?」
息も絶え絶えで、頬は赤く、目は潤み、目尻には涙。後、口元にはよだれ。
やりすぎたような気もするな。
青いスカートのポケットからハンカチを出すと、ひざまずいたまま、そっと優しく目尻の涙を拭った。
そして立ち上がると、ぺっ、と雑に口元へ放り投げる。
「よだれが出ていましてよ」
自分でここまでやっておいてこれ。
おーっほっほ、という高笑いがどこからか聞こえてくるようだ。
妹がよだれをハンカチでぬぐう。
そのまま口元をハンカチで押さえながら、レティシアは私を、まだ潤んでいる瞳で睨んだ。
「っ……お姉ちゃんの馬鹿……」
私、妹に罵倒されるのも好きだな。