エスコートのマナー、反面教師編
ぱんぱん、と軽く手についたパンくずを払った。
それを目当てに少し離れた所にいた小鳥達が集まってきて、チチ……と鳴き声を上げるのを、しばし目と耳で楽しむ。
くい、と、残っていたりんご果汁の炭酸割りを飲み干すと、陶器のコップを両手に持って、サンドイッチの屋台に戻った。
レティシアがコップを渡して保証金の銅貨を受け取る間に、黒熊のような巨漢の店主が、私に声をかけてくる。
「……食べにくくはなかったかね」
「そういう料理でしょう?」
私は、外見だけなら貴族令嬢か大商人のお嬢様かといった風情だ。店主としては心配だったのだろう。外見に似合わずと言っては失礼だが、繊細な心配りだ。
「楽しめましたわ」
「そいつは何よりだ。……そこの道を右に行くと芝生で、犬の立ち入り禁止スペースになってるから、少し休むならそこがいい。左は逆に犬を遊ばせられる広場だから、その……」
店主が言葉を濁した。
犬の落とし物があるかも、ということだろう。
「だいたい分かりましたわ。心遣いありがとう」
ちら、とレティシアを見ると、彼女は微笑んだ。
小ぶりの財布をスカートのポケットにしまうと、私の腕に手を添えてくる。
「行ってみます。ね? お姉様」
「……ええ。それでは、これで」
屋台を後にし、言われたとおり遊歩道を右に行くと、広い芝生のスペースが広がっていた。
囲むように軽くロープが張られていて、隣のスペースは飼い主と共に大小様々な犬が走り回り、あるいはゆったりと寝転んでいる。
それを横目にしながら、レティシアと芝生のスペースに入り、並んで歩く。
まばらに人がいて、それらと適度な距離を取ったところで立ち止まった。
「お姉様。この辺でちょっと休みませんか?」
「ええ」
そこでレティシアは、はっと何かに気付いたような顔になった。
「あ、ハンカチとか敷くべきでしょうか」
「何を読んだの」
現実では聞いたことがないマナーだ。少なくとも、貴族のマナーではない。
たまに恋愛物では見るのだが、実際にやっている人は見たことがない。
だいたいそれをするにしても、姉妹同士ではないだろう。
さすがに冗談だったようで、妹は軽く笑った。
私は軽くスカートを両手で押さえて、芝生に座り込む。
と、妹が、当然のように隣に座った。
彼女は、距離の詰め方が上手い。隣にいるのが、ごく自然に感じられてしまう。
……隣にいない時、それが不自然に感じられるほどに。
空を見上げると、筋状になった雲がゆっくりと流れている。
風が頬を優しく撫でた。
町中とは違う、緑の香りがする。
秋が好きだ。過ごしやすく、いろいろな作物の収穫が多い季節でもある。
報告通りなら、領地の税収にも期待できるだろう。
ぷち、となんの気なしに足下の芝生をむしると、風に流した。
何か価値のあることをしなくてもいい時間の、なんと贅沢なことか。
書類に目を通さなくていい。報告を聞かなくていい。交渉や説明もしなくていい。自分を高める必要も、ない。
ただ、肩の力を抜いて、目の前の景色から何を学ぼうとしなくてもいい時間。
私が自分に許した、最後の余暇だ。
……しかし、そうしていると、そわそわする。
備えろ。予測しろ。望む未来を決めろ。そして、選び取れ。
私の中で、今の自分を咎める声がする。
私達貴族が無能でいていい道理など、何一つない。
けれど今の私に、貴族としての価値はない。
シャツの胸ポケットからヤモリの紋章入りの懐中時計を取り出すと、パチンと蓋を開けた。
カチ、カチ、と時計の針が回転し、歯車がめまぐるしく噛み合って回るのを見るともなしに眺める。
時計は、時間を刻むべきだ。
歯車は、常に同じ間隔で、一秒先も一秒前と変わらず動かねば、価値がない。
壊れるその瞬間まで、動き続けなくては。
懐中時計を持った手が、妹の手で包み込まれた。
「レティシア?」
妹が珍しく、愛らしい顔に不満げな表情を浮かべている。
責めるような視線。――今まで、私に対しては一度も向けたことがない表情だ。
ボロい屋根裏部屋をあてがわれ、ベッドがあるのにソファーに追いやられ、馬から突き落とされてさえ、妹は私を責める様子を見せなかった。
それが、今は責められている。何を責められているのかはさっぱり分からないが、何か責められているのは分かる。
……ひどく居心地が悪い。
「お姉様。何か、時間を気にするような予定がおありですか?」
「いえ、別に……ないけれど」
気圧される。
今日は一日、予定を空けた。
シエルを筆頭に、我が家は優秀な人材を抱えている。私はお飾りではないが、当主が少しいないぐらいで揺らぐことはない。
特に、四年前からそういう風にしてきた。
レティシアが、すんなりと、当主の座に就けるように。
じっと、私の中で次期当主に内定している妹の言葉を待った。
断頭台の待ち時間ってこんな気分だろうか。
「……では、今日エスコートされているのは私なのですから、今は、私だけを見てください」
抱きしめたい。
いや、違った。反省する。エスコートする側のマナーを修めているとは、なんと傲慢な思い上がりだったことか。
デート相手……ではないが、共に出かけエスコートしている相手を不安にさせるなど、公爵家当主の名が泣くというもの。
私は、レティシアの手から自分の手を抜いて、元通りシャツの胸ポケットに懐中時計をしまった。
そして、追いすがってくる手をこちらからつかまえて、今度は自分から妹の手を包み込む。
「今日は……そういう日だったわね。これは、エスコートの悪い例です。こういう相手と付き合ってはいけませんよ」
反面教師ということにしておこう。
妹が、真剣な顔で、少し距離を詰めて、じっと私の目を見つめてきた。
今度は、何を言うのかと身構える。
「……むしろ私は、そういう相手に自分を見て欲しい、です」
妹の好みが特殊な説が出てきた。