見えない境界線
しばらく王都をぶらついて、レティシアに案内されてきたのは――
「ここ……私も、来るのは初めてだわ」
「え? そうなんですか?」
――王立の緑地公園だ。
鉄の柵で囲まれた広大な敷地。森に囲まれ、芝生が張られ、遊歩道が整備されている。
小さいながら、王都のそばを流れるアルトライン川の支流から水を引いた川や池さえもある。
民の憩いの場。
……貴族が来る場所ではない。
別に貴族が来てはいけないという決まりはない。
ただ、来る理由がなかっただけの話だ。
「屋敷のメイドさん達に勧められたんです。みなさん、時々来るそうですよ、開放感があるって」
王都郊外にも緑はあるが、牧場や農場、それに貴族の屋敷が大半を占める。
となれば、確かに開放感を求めるなら、選択肢はここになるだろう。賑わっていて、けれど敷地の広大さゆえに混雑はしていない。
それに、入場は無料だ。
レティシアが、公園の入り口手前、馬車止めの杭の直前で立ち止まり、隣を歩いている私も立ち止まった。
「……私も、来たことは、ないんです。区画としては、私が住んでいた廃きょ……古屋敷のすぐ近くっていうか、隣なんですけど」
王都の地図を頭に思い描く。
確かに巨大な正方形を描く公園の一辺が、"裏町"の一画に接して――
「"裏町"の方には、入り口がないから」
いる、のに。
別に"裏町"の住人が来てはいけないという決まりはない。
ただ、人の心に線が引かれているだけの話だ。
初めて会った時のレティシアは、ボロボロの服を着ていた。
仕事を選ばなければ……いや、誇りを持って選んでも、生きていくことは、なんとかできる。
ただ、生活に余裕はない。
食べる物、寝る場所に比べれば、着る物は優先度が低い。
さらに、娯楽となれば。
冷たい視線を受けてまで、わざわざ公園に来る理由がない。
私がこの公園に来たことがないのは、屋敷に庭があるから。王城に庭園があるから。王都郊外の牧場へ行けるから。他家の屋敷、自領の屋敷、別荘――
他の選択肢が、あるから。
私が、貴族だから。
貧しいとは、選択肢がないということ。
生きていくために道を選べない。
無能ではない。悪人だったのでもない。無能でも出来る仕事しか回されず、罪を犯すしかないまでに追い詰められる人達がいる。
ヴァンデルガント領の領主たる私には、裁判記録が送られてくる。
ほとんどは裁かれた結果だ。憎むべき悪、裁かれるべき罪が、確かにこの世にはある。
そして、やりきれなくなるような痛ましい事件も。
私が完璧な領主ならば、起きなかったような。
時折、情状酌量による減刑や、恩赦を求められる。裁判そのものは領の裁判官や領主代行であるユーディットに任せている。
それでも、当たり前の裁判なら建前のようなものだが……最終判断は全て、私の仕事だ。
ボロボロの服を着て、公衆浴場の銅貨数枚を惜しみ、仕事を買い叩かれるような……そんな者達を、綺麗な仕立て服を着て、自宅の湯船で温泉に浸かり、治めている領地の収益で暮らしている私が、裁くのだ。
本当の意味で、分かるはずもない。
何度視察をしても。部下と話しても。"影"達から上げられた報告を読んでも……分かるはずが、ないのだ。
でもきっと、妹なら分かる。
私には分からないことを分かって、私には出来ないことを出来る。
そっと、妹が添えている腕を下ろした。
「お姉様?」
そして、軽くレティシアを引き寄せて、その肩を抱く。
「んっ……!?」
妹が固まったのをいいことに、そのまま私も動きを止める。
何も言えない。
運命を変えるようなことは、何も。
それでも、こうしたかった。
レティシアは、【月光のリーベリウム】の【主人公】だ。
でも、私の妹だ。
物語の中では、悲しい過去は幸福な未来に繋がって、全ては報われるようになっている。
でも、この子は傷ついたのだ。
私にその傷を癒やせるはずもない。むしろ傷を抉る側だ。
【悪役令嬢】とは、そういう役割だ。
でも、今だけは。
この子のお姉ちゃんとして、こうしたい。
ちょっとぐらいアドリブを入れても、それはまあ、演者の裁量の範囲内ではないだろうか。
だんだん判定が甘くなっているのを自覚しつつ、これは多分、妹が愛らしすぎるのが悪い。
「……行きましょう、レティシア」
「……あ、はい」
名残惜しいながらも、妹の肩から手を離して歩き出す。
馬車止めの杭を避けて左右に別れ、また合流し……道と公園の境界線の手前で、一瞬、足が止まった。
石畳から煉瓦の遊歩道へと切り替わる、誰もが当たり前にまたぐだろう境界線に視線を落とす。
そして、すぐに追いついてきた妹と一緒に、踏み越えた。
そこで丁度、時計塔の鐘が鳴って、二人して公園に入ったすぐの所で足を止めて、なんとなく時計塔を見てしまう。
太陽は真上。正午になって、串焼きソーセージを食べてそれほど間が空いていないが、よく歩いたので空腹感もある。
それに加えて、妹の可愛さに耐えるのは精神力をひどく消耗するので、お腹が減る気がする。
「お姉様、行きましょう!」
時計塔の鐘が鳴り止むのを待たずに、妹が私を大きな声で呼んで、ぐい、と手を引いていく。
なんとなく勢いに呑まれ、抵抗せずに、ちょっと小走りになった。
「公園の中にも、お店があるらしいんですよ。お昼ご飯、そこで食べましょう」
「ええ、いいわね」
歩幅を緩めた妹と、芝生と芝生の間に、煉瓦が敷き詰められた遊歩道を、手をつないで並んで歩いて行く。
エスコートという建前からすればあまりよろしくないのだが、ここは民の憩いの場である公園だ。貴族のマナーを振りかざすべき場ではない。
「ところで、お姉様」
「なあに?」
少し目線を下げて、隣の妹を見た。
何か聞きたいのだろうか?
自分が、ちょっと優しい気持ちになっているのが分かる。
隣を歩く妹は、ほんの少し私を見上げながら、首をかしげた。
「……さっき肩を抱いてくださったの、なんだったんでしょう?」
無視した。