【王子との出会い】
王城のトイレの前で、妹より先に用足しを終えて出て、廊下の向こうに人影を見つけた時、私は心底ほっとした。
彼の姿を見てほっとする日が来るとは、人生も分からないものだ。
彼は、私と少し距離を置いて立ち止まり、涼やかで――刺々しい声を投げかけてきた。
「……間もなく、陛下への謁見ですよ、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ」
「当然、承知しております。淑女には、身だしなみというものがありますわ、コンラート・フォン・ユースタシア殿下」
父親譲りのくしゃっとした淡い金髪に、深い緑の目。
私より一つ年下の二十一歳。年頃ということで、縁談は噂話の種として大人気だが、王族の結婚には貴族以上に政治的な意味がある。結婚適齢期の貴族令嬢達は、彼との結婚によって王家への輿入れが叶うのを、ふわふわと夢見ている――らしいが、私はあらゆる意味でまったく興味がない。
昔は私より小さかったくせに、いつの間にか私の背を追い越していた。
白を基調とした礼装は、公平な観点から言えば、すらりとした美丈夫の彼によく似合っていて、男振りを上げている。
私的な観点から言えば、この男が何を着ようと、どうでもいい。
腰に吊っている剣も飾りではなく、これで白馬に乗ればまさしく王子様だ。
そういえば、【月光のリーベリウム】では、彼が白馬に乗るシーンもあった。
妹と並べば、色合いは違えど金髪同士で、どこか兄妹のようでもあり……業腹だが、お似合いと言えなくもない。
「あなたが? ――淑女? 淑女の基準も、随分と緩んだものです」
「あら。日頃女性にお優しいと噂の『王子様』にしては辛辣なこと」
神経を逆撫でするべく、口元を手で覆い隠して、くすくすと笑うと、むっとした様子になる王子。
……いけない。
つい、いつも通りの対応をしてしまった。
レティシアに聞こえていたらどうしよう。
「急ぎなさい。では、私はこれで」
そう言って、彼は歩き始める。
――待て。
もう少し待て。
「……待ちなさい」
「まだなにか?」
とりあえず呼び止めた。
しかしノープラン。
レティシア、早く来て!
その心の叫びが聞こえたはずもないが、水音がして、すぐにレティシアが出てきたので、私は内心でほっと胸を撫で下ろした。
「お姉様、お待たせしました」
よし、おおむね【公式イベント】通り。
次の公式ゼリフは――【「レティシア。こんな所にいたのですか? まったく、手間をかけさせないでちょうだい」】。
……ダメだ。この公式ゼリフは捨てよう。
私が連れてきたのだし、『こんな所にいた』というセリフに説得力がない。
女の子一人の尿意ぐらいコントロールできないで、何が運命だ、馬鹿馬鹿しい。
……けれど、運命なんてものがなければ――どうすれば、三年も前から、自分に実の妹がいると知ることができただろう。
多少形は違うが、王子が通りかかった。
後は、私が妹をいびって、彼が妹の味方をすれば、とりあえずイベントの体裁は整う。
「【レティシア。】遅いですわよ。間もなく謁見です。【まったく、手間をかけさせないでちょうだい】」
「【……すみません、お姉様】」
完全にとは言えないが、一応使えるところは再利用する。
そして、妹は【公式ゼリフ】で応えた。
「【……アーデルハイド嬢。彼女が、先日見つかったというあなたの妹ですか】」
「【ええ】」
彼は私を、嫌味を込めたフルネームか、同じく嫌味を込めているのだろう『嬢』付けで呼ぶ。
どう聞いても、他の令嬢に対しての『嬢』より、刺々しいのだ。
それに、昔からの呼び方だが、私が令嬢ではなくなり、当主になってからも使うのは、暗にお前を当主とは認めないと言っているのだろう。
「【はじめまして。私は、コンラート・フォン・ユースタシア。この国の第一王子です。あなたのお名前は?】」
――うむ、公式通り。
少し説明口調だが、まあ自己紹介とはそういうものだし、観客への説明も兼ねているのだ。大目に見よう。
彼は自己紹介の通り、『フォン』の後に『ユースタシア』を名乗ることを許された王族だ。
王位継承権、第一位。ユースタシアの第一王子。
そして、【月光のリーベリウム】における【攻略対象】。
三人いる、主人公の恋人候補。
公式の流れに乗った。
これで、ようやく安心できるだろうか。
「【はじめまして、コンラート様。レティシア】・フォン・ヴァンデルヴァーツ【です】」
……ん?
今、ちょっと違った。
妹のセリフは、シンプルに【「はじめまして、コンラート様。レティシアです」】だったはず――
「【それで、こんな所でいったい何をしていたのですか】」
「……妹が、間もなく謁見だというのに、用足しに時間をかけているのが悪いのですわ」
私は流れ上、公式ゼリフを喋れない。
まあ、意味が合えばいいだろう。
ある程度、叱責に正当性があった『原作』より、自分で連れてきておいてこうなのだから、理不尽さは増したと思う。
さらに、淑女の身だしなみがどうたら言っていた口でこれを言うあたり、我ながら面の皮が厚い。
「【――そのようなくだらないことで、妹を責めているのですか? まったくあなたは性格が悪いですね、アーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ】」
私もそう思う。
馬が合わないと思っていたが、ようやく意見が合う。
彼の、背伸びした『王子っぷり』は、いつもは鼻につくが、今は頼もしい。
その調子で妹の味方をするがよい、と上から目線になる。
しかし、思わぬ伏兵がいた。
「――コンラート様。そのようなことは言わないでください」
「……レティシア嬢?」
コンラートが、目を見開く。
「お姉様の性格が悪いなんて言葉、聞き過ごせません」
いや、私は性格が悪いと思いますわよ?
「……レティシア嬢。ヴァンデルヴァーツの異名を知っていて言うのですか? ――"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"です。この国にあってはならない、血の通わぬヤモリですよ」
彼と結婚すれば、レティシア・フォン・ユースタシア……まあ、似合わなくもない、だろうか。
ヴァンデルヴァーツの方が似合ってると思うけど。
などと、適当なことを考えながら、二人の会話を見守る。
「ヤモリ、可愛いじゃないですか」
「……え、いや。そういう話ではなくてですね」
ペースを乱されるコンラート。
思わぬところで、レティシアの意外な好みが判明した。
……まあ、"裏町"育ちなのだ。ヤモリが嫌いではつらかろう。
コンラートは、端正な顔に、薄い笑みを浮かべた。
「――彼女の本性を知れば、あなたは姉などいない方が良かったと思うでしょう」
また、意見が一致する。
私は、妹の栄光のための踏み台だ。
私が何をしてきたのか。
……知られたく、ない。
「……私達"裏町"の住人からすれば、王族も貴族も、みんな同じです」
しかし彼女は一歩も退かず、きっと睨み付ける。
でも目力が足りないので、むしろ可愛い。
私の目力を何度か浴びたことのある王子も同じ感想だったようで、微笑む。
「でも、ヴァンデルヴァーツは違う。あの家だけが、私達に、手を差し伸べてくれた……」
……それは、妹がいるから。
せめてもの手助けが、彼女に届けば……と、我が家は、"裏町"の住民の支援を行っている。
「配られた食べ物に、毛布……それがなかったら、飢えるか、凍えるかしかできなかった人達が……いるんです」
一応、今も継続されてはいるが。
それは、無私の行いなどではない。
私は……そんな聖人君子ではないのだ。
しかし、そんな事情を知らないコンラートは、虚を突かれた顔で私を見た。
こっち見んな。
さらにレティシアがダメ押しをする。
「……それに、人の家族を悪く言う人は、私、嫌いです」
コンラートが、無表情になった。
さらに、右手をぐっ……と握り込む。
はらはらする。
本人や周囲が気付いているのか知らないが、あれは、こいつが何かしらの感情を抑え込む時の癖だ。
――礼装だから、腰に剣を吊っているのだ。
もちろん、刃は落とされていない。
……ここで抜くほど、短絡的ではない、はずだ。
しかし、この世界に絶対はない。
思い返せば、こいつは一つ年上の公爵家の令嬢と喧嘩して、稽古と称して木剣を持ち出すような、短絡的で直情的なアホだった。
幼い頃の話だが。
きっちり勝ったが。
もう私達は、あの頃のようではない。
儀礼的な場で、真剣を帯びることさえ許される立場だ。感情的になるなど、許されない。
そっと、右手を握り、動作を確かめる。
すっと指を二本伸ばした。
――剣を抜く素振りを見せれば目潰し。無力化が間に合わなければ、刃を自分の身体で止める。
刺し違えてでも、仕留めてみせる。
万が一でも、妹に危険が及ぶ可能性は――『摘む』。
【月光のリーベリウム】も、王位継承権第一位も、知るものか。
たとえ脅しでも、この状況で剣に触れるような奴に妹はおろか、この国も任せられない。
……しかし、コンラートは剣には触れず、頭を下げた。
「……失礼しました。確かに、妹であるあなたに言うことではありませんでした」
この男が頭を下げるのを見たのは、いつぶりだろう。
柔らかな物腰の裏に隠した本性は、死ぬほど意地っ張りのくせに?
「――お姉様、行きましょう。急がないと」
「え? ……あ、ああ。そうですわね」
妹が私の手を引いて、王子を置き去りに、謁見の間へと急ぐ。
妹に気付かれないように、伸ばしたままだった二本の指を、そっと元に戻した。
謁見の間は、控えの間の、目と鼻の先だ。
羽織りものをメイドに託し、謁見の間を守護する衛兵が、陛下に私達の来訪を告げる間に、妹が軽く息を整える。
私も、小さく息をついた。
一応、妹と王子は出会った。
だいぶ、【公式イベント】とは違った形になったが。
本来の締めは【「レティシア嬢。何かあれば、いつでも言ってください。私が、ユースタシアの名に懸けてあなたの力となります。――それでは、謁見の間で」】だった。
跡形もない。
というか、なんで私が妹にかばわれてるのかしら……。
思わず、遠い目になってしまった。
この出会いで、恋……生まれるかな……。
無理かな……。