レティシアのお誘い
私は、自室の机に向かいながら、頭の中で【月光のリーベリウム】のシナリオを辿って、おさらいしていた。
そろそろ最後の【選択式個別イベント】が起きる頃合いのはずだ。
攻略対象を一人を選ぶイベント。恋愛物語のハイライト。
【デートイベント】が。
ゲーム内には厳密な日付表記がないために、描写の内容からの推測になるが。
ユースタシア北部を追うように王都でも、夏の日差しが弱まってきた今……秋口に差しかかった頃だろう。
私には、デートイベントのゲーム知識がある。
しかし、私はそこに関わってこない。
私はあくまで、メインの恋愛イベントからすれば脇役なのだ。
お邪魔虫として適度に邪魔をして、最後は観客の憎しみを一身に浴びて舞台から退場するのが務め。
しかしそれは、あくまで『適度に』だ。
見えざる劇作家は、デート中にまで邪魔しに来られては、恋愛話に集中できないと考えたのだろう。
だから、私の出番はデートイベントの間、存在しない。
公式ゼリフもない。
何をしているかも語られない。
だから……妹が誰とどうなろうが、私には関係ないのだ。
関係ない――はずなのだ。
「えほっ……」
なのに、妹が【攻略対象】に甘い言葉をささやかれながら、街を歩き、楽しそうな顔をして……頬を染める――そんな光景が頭を駆け巡った瞬間、ムカデに全身を這い回られたような怖気が走り、吐き気がした。
喉元までこみ上げてきた胃液の苦さに、目の端に涙が滲む。
思い切って吐いたら楽になるかとも思ったが、ぐっと飲み込んだ。
部屋を汚したくないし、シエルに心配されたくもない。
両肘を机について、口元を手で強く押さえ、目を固く閉じて心を氷のように凍らせる。
それでも抑えきれずにまぶたの隙間から染み出した涙を、ぐい、ともう片方の手でこすり取った。
必要なら、どんなことでも行える。
そんな風に、自分を規定した。
受け継がれてきた全てを、私は引き継いだ。
義務と忠誠を。
ユースタシアに安寧を。
それが、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"現当主たる私の責務。
知っているのに。
……全部、知っていたのに。
私には、ゲームの記憶がある。
一字一句完璧に再生できるほどの、呪いのような強さで、頭の中に刻み込まれている。
私は、【月光のリーベリウム】の物語を、三人の【攻略対象】それぞれのルートで知っている。
妹が誰を選んでも、彼女は相手に応じて、恋人らしく接する。
以前の私なら、それを微笑ましく思えていた。
心の内で応援することさえ、できたのだ。
なのに、今ではもう。
彼女の隣にいるのが、私ではないことが。
彼女が見ているのが、私ではないことが。
今では、もう。
ノックの音がした。
「……アーデルハイドお姉様。今、よろしいですか」
妹の、声。
今は聞きたくなかった声だ。
なのに、いつだって聞きたい……声。
「少し待ちなさい」
意識して、平静な声を出す。
椅子から立ち上がると、水差しからガラスのコップに少しだけ水を注ぐ。コップの端に唇をつけ、舌を湿らせるようにして少しずつ喉を潤し、気持ち悪くならない程度に水を口に含んで、胃液の苦さを消した。
この胸の苦さは、そんなことでは消えないけれど。
部屋のドアの前に行き、習慣で掛けている鍵を外す。
そしてノブをぎゅっと握って回すと、引いた。
そこにいるのは、当然ながらレティシアだ。
何やら真剣な顔。
「何の用ですか」
なるべく――そう、なるべく平坦な声を出した。
そこで、レティシアが不安げな表情を浮かべる。
「あの……お姉様、大丈夫ですか? その、顔色が……」
「……別に、問題ありませんわ」
隠している気分の悪さが分かるのかと、少し感心した。
……原因までは分かるはずがないでしょうけども。
「それで、何の用ですか」
「あの……週末に、外出したくて」
「……ああ」
表情は、変わらなかっただろうか。
声は、かすれなかっただろうか。
体は、震えていないだろうか。
「どなたか殿方に誘われましたの? ……構いませんわ。既に行動の自由を与えているのですから、あなたが屋敷の外で何をしようと、私には何の関わりもないことです」
意図的に、妹の心を抉るような『悪役令嬢らしい』言葉を選ぶ。
それが、同時にひどく自分の心を抉るのは、仕方ない。
……ああ、早く、全てのイベントが終わればいい。
【最後の舞踏会】……そして、その先にある【断頭台】が、今となっては待ち遠しくて仕方ない。
「いえ……誘われては、おりません」
一人の外出か。てっきりデートイベントかと。
脳内で、妹に密かに付けている護衛のローテーションは誰になるのだったかと考えていると、妹は言葉を続けた。
「……誘いに来ました」
どくん、と心臓が跳ねた。
「……誰、を?」
やめて。
言わないで。
これ以上、私に、期待をさせないで――
「お姉様と……一緒に出かけたいのです」
っ……。
思わず無言で奥歯を噛み締めた。
「わた……し、は」
予想外の言葉――『ではない』。
私はアーデルハイド・フォン・ヴァンデルヴァーツ。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主。
この名は、ただ非道な行いをもって得た名前ではない。
幅広く収集した情報を元に、ありとあらゆる可能性を考慮し、未来を予測し……そして最小の介入で、より良い結果を導き続けたのが、ヴァンデルヴァーツ家。
その次期当主たるべく仕込まれた私は、そんな可能性さえ考慮した。
ただ『いじわる』をするだけの姉を、妹が遊びに誘うような、そんな未来を。
そんな、甘い夢を見た。
そんな筋書きは、公式シナリオにないと知っていて。
それでも。
そんな、都合のいい夢を見た。
「一緒に街を歩いても……つまらない女ですわ」
私は、話は終わりだとばかりに顔を背けた。
「誰か他の者を――」
「アーデルハイドお姉様が、いいのです!」
妹が、私の言葉を遮るように叫ぶ。
彼女は一歩も退かなかった。
何をそんなに必死になっているのかと言うほどに、真剣な光を私と同じ青い瞳に湛えて、私をまっすぐに見つめる。
こんな汚れた私を、まっすぐに。
「ダメ……ですか?」
妹の声が、震えていることに気が付いた。
傷付く、だけなのに。
大切な物を持てば、それは弱みになる。
期待すれば、裏切られるようになっている。
こんな私に『優しいお姉ちゃん』を期待しても、優しい彼女は、手を振り払われて傷付くだけなのに。
こんな私が『仲良し姉妹』を目指しても、終わりが辛くなるだけなのに。
「ダメじゃ……ありませんわ」
それなのに、私の口から出てきたのは、自分の意に反した言葉だった。
いいや。あるいは――自分の意に沿った言葉なのか。
私は――何を言っているのか?
今からでも先の発言を取り消すべく口を開こうとした瞬間、動きが止まる。
「お姉ちゃん……!」
妹が、顔をほころばせたから。
何も言えなかった。
庶民のような呼び方をするものではない、とも。
やっぱりさっき了承したのはなかったことに、とも。
そのほっとしたような笑顔を、傷付けられずに。
仲良く振る舞えば、お互いが傷付くだけ。
『仲良し姉妹』など目指しても、そんな未来は用意されていない。
この世界には、人を超えた力がある。
私は、それに抵抗しないことに決めた。
私に出来るのは、運命が妹の味方であり続けるように、あらゆる介入を排除することだけ。
それだけだ。
それだけなのに。
それだけの、はずなのに。
「ありがとうございます! えっと……詳しいことは、また後で……」
妹が身を翻して部屋を出ると、廊下を走っていく。
後を追うようにぼんやりと廊下に出て、その後ろ姿を見ていたら……角を曲がるところで彼女は振り返って、私と目が合うと、ぱあっと陽が差したような笑顔になって、手を振った。
「約束ですよ!」
いつもほど気を張っていない、年相応の……多分、彼女の素であるだろう口調が、嬉しくて。
私のような女に向けられるとは思えないような明るい笑顔が、眩しくて。
私は――思わず手を振り返していた。
妹が、曲がり角の向こうに消えてからも。
間違っている。
間違っているのだ。
悪役令嬢と主人公が一緒に仲良くお出かけするような、そんな【イベント】は、公式に存在していない。
だから、この選択は間違いだ。
それなのに、何も言えなかった。
見る人が消えてなお振っていた手をゆっくりと下ろす。
そのまま、何もない手のひらへと視線を落とした。
……大筋が変わらなければ、許されるだろうか?
結末さえ、変わらなければ。
幕間に、演者同士が。
本当は、仲良くならないような相手同士が。
仲良く、していたとしても。