控え室の焦り
――私は、焦っていた。
「レティシア。紅茶を飲まない?」
「いえ……この後に謁見ですから……」
謁見の間にほど近い待合室で、レティシアと二人きり。
メイドは隣の部屋に控えている。イベントに邪魔だから追い払ったら、明らかにほっとしていた。
それでもいつ呼ばれるか分からないとは言え、雇い主の当主と令嬢といるより、気が休まるだろう。
重厚な柱時計で、それとなく時刻をチェック。
まずい。
間もなく、謁見の時間だ。
なのに【公式イベント】が、起きない。
謁見など、レティシアにドレスを着せるために見えざる劇作家が考えた口実だ。
それが証拠に、そちらは、かなりさらりと流される。
美麗な一枚絵――【イベントスチル】があるのは、王子との出会いだ。
しかしそのためには、謁見前にトイレに行って、遅れそうなことに慌てて急いだ挙げ句、王子にぶつからねばならない。
なぜ、そういう不確かな、突発的なものを、イベントに組み込むのか。
さらに、妹の様子を見に来た私にいびられ、王子にかばわれるまでが、ワンセットになっている。
それは私が頑張るとして。
あの王子も、まあ淑女に対する扱いは叩き込まれているだろう。多分、妹をかばうはずだ。
そこは、問題がないはずだ。
けれど、まず出会わなければ、どうしようもない。
今すぐイベントを投げだそうかと思ってしまったが、仮にも【攻略対象】――つまり、レティシアの恋人候補だ。
妹の人生を預けられる男か、厳正な審査を行わねばならない。
だが、妹に尿意が訪れないのは、当然というものだ。
なにせ、控え室に来ると同時に、トイレに行っていたのだから。
様子を見に行ったが、時間に余裕があるので慌てることもなく、当然王子にぶつかることもなく、普通に戻ってきた。
それはもちろん、時間を意識するのは大事だ。
でも、今だけは、そういう賢い妹であってほしくなかった。
時計塔の鐘の音が鳴り響くユースタシア王国の首都では、"裏町"の住人であっても、時間を意識して過ごしているのだろう。
お手洗いに行きたいと言う妹を止める、もっともらしい理由は、さすがに思いつけなかった。
もう一度行けば問題ないと、何度かそれとなく飲み物を勧めても、断られた。
運命に祈りを捧げても、一向に妹は席を立とうとしない。
……時間はギリギリ。
【イベント】の正確な時間は、分からない。
しかし――これ以上、待てない。
「レティシア、私は、お手洗いに行ってきますわ」
「あ、はい。お待ちして――」
「あなたは、供をなさい」
強引にイベントを進めることにした。
しかし妹は、どこかほやん、と首を傾げて正論を吐いた。
「メイドさんではなくて、私なのですか……?」
そもそもメイドさえ必要ないのだが。
通い慣れた王城だ。それもお手洗いに行くだけのこと。貴族とは言え、お供など必要ない。
暗殺の危険でもあれば別だが。
「――なにか、不満でも?」
理屈立てて説明するのを諦めて、ぎろりと睨み付けた。
シエルに留守を任せて良かったと、心底思う。
彼女なら、隣室ではなく、側にそっと控えていてくれただろう。
念のためにと、一緒に来てくれただろう。
レティシアを迎えに行くのも、さりげなく自分が引き受けたはずだ。
――彼女のような有能な人間がいれば、イベントが起こらない自信があった。
「……いえ」
妹は、私の視線を避けるように目を伏せた。
目力には自信がある。
これでも私は、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主なのだ。
しかし彼女は、口元を緩めると、顔を上げて――微笑んだ。
「私を供に選んでくださって、嬉しいです。お姉様」
目力に対する自信をなくした。
これでも私は、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主なのに……。
たすけてシエル。
妹のメンタルが、強すぎる。
一瞬、ここにいないシエルに心の中で助けを求めてしまった。
シエルは、ほとんどいつもすまし顔を崩さないが、激務に疲れを見せた私をいたわる時など、たまに微笑んでくれる時の顔は、どきりとする。
昔はシエルも、もう少し笑顔が多かった気がする。
――彼女が当主補佐ではなく、私の養育係であり、教育係だった頃の話だ。
そんな彼女が、「目力というものは重要です」と言って、淑女が身につけるべきマナーとは別だと前置きした上で教えてくれた。
彼女に冷たい目で睨みつけられると、背筋が冷えて、ぞくりとした。
以後、絶対にシエルだけは敵に回さないと、幼心に誓ったものだ。
彼女に褒められるのが嬉しくて、彼女の指導が正しいのだと証明したくて、彼女の期待に応えたくて――彼女の笑顔が見たくて。
シエルがいたから、私は自分を高められた。
それも今はもう、昔のこと。
今ここに、シエルはいない。いてはいけない。
彼女は、私を助けてくれる。――助けてしまう。
彼女の最優先は、きっと私。……うぬぼれでなければ。
でも、今はもう、一人でなんとかしなくてはいけないのだ。
私は、ヴァンデルヴァーツ家の現当主。
そして妹をいじめ抜く、【月光のリーベリウム】の『悪役令嬢』なのだから。
「行きますわよ、レティシア」
「はい、お姉様」
妹が席を立ち、私に続いた。
……私は、生まれを選べなかった。
当主となることは、定められた運命だ。
でも、この役割だけは違う。
私が、初めて自分で選んだ『役』だ。
――やり遂げて見せる。
私は、"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"の当主なのだから。
さっき、ちょっと自信をなくしたけど。