逃げ場のない設定
シエルの『かばったように見えた』という誤解(ではない)に対して、いったいどう説明したものか。
どうにか上手い言い訳をひねり出そうと考えていたところに聞こえたノックの音に、シエルと二人揃って振り返ってドアを見る。
薄いドア越しに、大陸で一番可愛い声が聞こえた。
「今よろしいですか?」
よろしくない。
まったくよろしくない。
「どうぞ」
しかし、シエルがきびきびと返事をしていた。
すぐに勢いよくドアが開いて、レティシアが入ってくる。
彼女はドアを後ろ手に閉めると、ぱたぱたと走り寄ってきた。
「ルイ先生から聞いたんです。手を怪我されたって……」
「大丈夫です、レティシアお嬢様。少し手を痛められていますが、治療は終わりました。安静にすれば数日でよくなるでしょう」
レティシアがほっと息をつく。
「よかった……」
……いや、これが大量出血しているような重傷ならともかく。
公爵家当主が、酒場の喧嘩で拳を痛めたという、聞く人が聞けば練り込みが甘いお笑いのネタと切り捨てるような、程度の低い笑い話だ。
何をそんなに心配そうに。
……心配『そう』では、ないのだろうか。
私は可愛い妹に関することなら、どんな些細な怪我も許容できないし、心配するだろう。
だから、もしかしたら。
この並外れて心が美しく純粋な私の妹は、こんな性根の曲がった性格の悪い姉さえも心配しているというのだろうか……?
「えっと、それでカミラさんが、ピークは過ぎたので食事にしてくれって。お給料とは別に、店で好きなものを注文していいそうです。――『あたしの奢りだから』って」
カミラの心遣いに、胸が温かくなる。
「で、話の流れで、お三方がご一緒にどうぞって。コンラート様が『私が奢らせていただきますから』って言ってました」
なぜ似た言葉なのにこうも響かないのか。
「……お姉様も一緒ならってお受けしたのですが……どうでしょう?」
大人しく【公式イベント】だけ持ってこい運命。
なぜこうも判断に苦しむイベントを持ってくるのだ。
食事場所を選んでいいと言ったのは私。店を手伝うのは成り行きだ。
まかない飯もそれはそれでいいものだが、彼女は店の雰囲気に惹かれて選んだのだ。店内で食事できるならそれに越したことはないだろう。
三人の【攻略対象】との食事が、良い方に転ぶかも分からない。――それを断ることが、どう転ぶかも。
決められた通りに。定められた通りに。望まれた通りに。
そんな風に、自分に『公爵家当主』を求めた。
それから外れている今、『悪役令嬢』としての正解が分からない。
「ピークを過ぎたとはいえ、まだ忙しくなるかもしれないし……」
ぼそぼそと、言い訳じみた時間稼ぎにどうとでも取れることを言う私の腕に、シエルがそっと触れた。
「シエル?」
「どうぞ行ってらっしゃいませ、アーデルハイド様。店の方は、私がもう少しお手伝いさせていただきますので」
「……そう思う根拠を述べなさい」
「トラブルはありましたが、本日はお忍びの視察で、まだその設定は生きています。この店で食事をすることに問題はございません。また、お三方との交流もマイナスにはならないと考えます」
プラスにもならない気がする。
最終的に断頭台に送り送られる間柄だ。
しかし、そういうことは言えない。
言えないことばかりだ。
「公的な場ではないのですから、そう固く考える必要もありません。……アーデルハイド様は、もう少し肩の力を抜かれるべきです」
「……私もそう思います!」
真剣なシエルとレティシアの視線を受けて、たじろいでしまう。
一つ息をつくと……肩の力を抜いた。
「……ええ。行きましょう、『レティ』」
微笑んで立ち上がる。
「……はい! 『アデル姉様』!」
妹が私の、痛めていない左手を取るのも自由にさせた。
この名前で呼びあっている間、私達は平民の姉妹だ。そういう設定だ。
「それで、アデル姉様。着替え、手伝いますね」
「え?」
何を言い出したのかこの妹は、とレティシアを見るが、にこにこと笑顔を浮かべていた。
思わずシエルを見ると、彼女も頷く。
「アデル、片手では着替えも不自由だと思うけれど、レティに手伝ってもらってね。私は先にホールに出ているから」
珍しい笑顔。
しかしその笑顔にこそ追い詰められる。
既に設定に従った演技モードなので、当主としての命令権は死んだ。
もう一度レティシアに視線を戻そうとするが、その前に手を引かれた。
「さ、行きましょう」
「……ええ」
大人しく頷く。
そして更衣室で、レティシアに手伝ってもらって着替えたのだが。
妹相手とはいえ、いや、だからこそ。
着替えを手伝ってもらうのはありがたいと同時に、まあまあ恥ずかしかった。