教育係に酒場の裏に連れ込まれました
バーカウンターの後ろから廊下に出る。
厨房を通り過ぎ、更衣室の手前の控え室に入った。
従業員が使う休憩用の部屋だ。バックヤードは交代で使うことを想定しているので、それほど広くはないが二人なら余裕がある。
私と同じデザインのディアンドルを私よりはるかに上手く着こなしているシエルが、木製の丸椅子を二つ向かい合わせで置いて、私に座るように促した。
「アーデルハイド様。お手を」
「はい……」
言われるがままに右手を差し出した。
「触れますので、痛みがあれば仰ってください」
「……分かったわ」
シエルがそっと手を取ると、指の一本一本を確かめるように触れる。
「っ……ちょっとだけ、痛いわ」
手つきは優しかったが、身体の芯に響くような痛みが走った。
「はい。ちょっとだけ、ですか?」
「ええ」
正直に言う。
骨が折れてはいない……はずだ。
多少教育内容が特殊だったとは思うが、これでも公爵家の令嬢として育てられてきたので、骨折の経験はない。指の骨はデリケートで折れやすい――折りやすい――という知識があるのみなので、この見立てが正しいのかどうか。
「軟膏を塗って、包帯を巻いて様子を見ましょう。痛みが増したら、すぐに言ってください」
「分かったわ」
素直に頷いた。
水差しの水を含ませた布で手を綺麗に拭われ、小ぶりなハンドバッグから取り出された軟膏が、シエルのしなやかな手で塗られていく。
さらに、巻きが少ない物だが包帯まで出てきた。
さすがに、公爵家当主が酒場で人を殴って手を痛めることまで想定していたとは思えないが、用意のいいことだ。
「……ごめんなさい」
いつになく沈黙が痛くて、私は呟くように謝罪を口にしていた。
「どうしたのですか? アーデルハイド様」
演技ではない、当主補佐としての呼び方で私を呼ぶシエル。
さっきもそうだった。
今は、演技をする相手もいない。
「だって、怒って……」
さっきのシエルは、私にとっては分かりやすく怒っていた。
「怒ってはおりません。……強いて怒っていたとするならば、あいつらと……自分に対して、でしょうか」
淡々と言うシエルは、確かに今はもう怒ってはいなかった。
「でも『あんな』真似をして。……貴族として、当主として、ああすべきではなかったわ」
「いいえ? それはまあ、少しばかり手が早かったとは思いますが……」
少しばかりというか、ものすごくというか。
うつむいた。
シエルが言葉を続ける。
「次にあのような場面があれば、私にお任せいただければとも思いますが……」
……あの時には思いつきもしなかったが、シエル一人に任せていても問題なかった。結果は同じになっただろう。
昔とは違い、今は店付きの用心棒もいる。私が出しゃばった意味などない。
ただ、一秒でも早く妹を安心させてやりたかった。
それだけの、自己満足だ。
先の自分の冷静さを欠いていた有様を思うと……いついかなる時も冷静であれという当主心得が泣いている。
「――それでも私は、アーデルハイド様があのように振る舞われたことを、誇りに思います」
「え?」
顔を上げると、シエルは微笑んでいた。
「私はアーデルハイド様を、貴族としてお育てしてきたつもりです。絶大な力を有し、その使い方を間違えない。そういう真の貴族……理想の貴族です」
そんなものはいない。……と言えば言い過ぎかもしれないが。
現実には、いないのだ。
貴族の力を持てば、平民の視点が分からない。
平民の視点を持てば、貴族の力の使い方を間違える。
コインの裏表のようだ。
そして理想を求めるというのは、コインを弾いて表を出すのでも裏を出すのでもなく、立たせることに似ている。
……誰にできるものか。
人には、狙って表を出すことさえできない。
「理想とは届かぬものかもしれませんが、それを目指すことには意味がある。諦めてしまえば、そこで終わってしまいます」
諦めたことが、ある。
ヴァンデルガントの酒場――カミラの店で働いて、養女となっていつか義母の店を継ぐような生き方を。
同じくヴァンデルガントの領軍騎士として、戦友と肩を並べることを。
夢に見て、諦めて……私はヴァンデルヴァーツの当主となった。
私が選んだのだ。
【月光のリーベリウム】――この世界を貫く運命の物語を知らなかった頃の私は、当主としての道を選んだ。
諦めたことを後悔はしていない。
それを選んでいればどうなっていたか、考えなかったと言えば嘘になるが。
私は当主として育てられたのだ。
当主としてしか、生きられない。
我が儘を通しても、誰にも祝福されない。
養子を取るなりなんなりして後継者を用意し、最大限に円満に貴族籍を捨てられたと仮定して、それは我が家が受け継いできた全てを、私ではない誰かに委ねるということだ。
ヴァンデルヴァーツの次期当主としての教育を受けていない、誰かに。
私が愛する土地を。果たせたはずの役割を。
――他の誰に委ねられるものか。
"冷徹非情のヴァンデルヴァーツ"という悪名さえ、私の誇り。
手を汚すことがあるとしても、何も守れないよりはいい。
それに、そんな風にささやかな夢を――……垣間見た違う生き方を諦めたから、私は妹を迎えられる立場にいた。
何より愛すべき、愛されるべき、世界で一番可愛い女の子が辿る心温まるような物語を、かぶりつきで見られる立場だ。
意地悪な腹違いの姉ということで心労が溜まる立場ではあるが、妹のお姉ちゃんだけは、他の誰にも任せられない。
……そういう物語も、読んだことがある。
予言を避けようとして行動し、しかし、その行動さえも運命に織り込まれていて、自分の手で予言通りにしてしまう物語。
予言を避けようとして、もっとひどいことになる物語。
……主人公、を。
私の妹、を。
そんな目に遭わせる可能性だけは、万に一つも許容できなかった。
シエルが包帯を巻き終わる。
包帯の上から、軽く一撫でしてくれた。
「弱き者を守るために拳を振るえる主を持ったことを、私は誇りに思っています。……それに」
『物は言いよう』という言葉が頭をよぎった。
頭に血が上っての短絡的な行動が、英雄的な行いだったかのように見えてくる。
「アーデルハイド様は、レティシアお嬢様への狼藉を許せなかったのですよね」
「ええ……いや、違う。それは違う」
思わず素直に頷いて、すぐに首を横に振った。
何を『勘違い』しているのだ、この当主補佐は。
シエルの灰色の瞳が、じっと私の青い瞳を見つめた。
「……違うのですか? かばわれたように見えましたが……」
いや、違わないのだが。
勘違いでもなんでもないのだが。
もちろん、そんなことを正直に言えるはずがない。
内心で、冷や汗が頬を伝う。
そこで、ノックの音がした。