思わぬ来客
酒場のホールに立つのは、久しぶりだ。
ヴァンデルガント領軍の騎士練成課程を受けに来た際も、その後の毎年の視察も、気まずくて近くを通ることさえできなかった。領都は大きな街だから、不自由はなかったが。
私が公爵家令嬢として受けた貴族教育は助けにはなったが、万能ではなく、苦労したことが思い返される。
今の私は『アデル』だ。
とある商会の娘で、社会勉強のためにお付きの教育係――シエルのことだ――と共に、実地で商売を学んでいた……ということになっている。
嘘は、少ししかつかないのがコツだ。
まともに働いたことすらなかった小娘は、もういない。
伝統衣装でもあるディアンドルだが、酒場の制服だからか、胸元は開き気味にされていて、十四だった私には気恥ずかしかった。
そんな私も経験を積んで、自信を持てるようになった。
この店を後にしてからのことが、思い返される。
騎士練成課程、グランドツアー、リーリエの訓練――そして父の死によって公爵家当主の座を継いだこと。
さらに【月光のリーベリウム】のシナリオを……妹の存在を、知ってしまった。
何が来ようと、私が歩みを止めることはないだろう。
強いて言えば、妹の可愛さだけは誤算だった。
今でも胸のサイズが変わっていないので、開き気味の胸元に自信は持てないが。
それでも、久しぶりとはいえ働いた経験のある馴染みの酒場の店員ぐらい、立派にこなしてみせる。
どんな客が来ようと、対応してみせる。
と、そこで入り口に人影が見えたので、素早く対応に向かう。
明るい店内から、暗い街路に沈む三人連れに、にこやかに笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ! 三名様です……か?」
笑顔のまま固まる私。
「……ここで出会うとは思いませんでしたね。愉快な格好で愉快なことをしていらっしゃるようで」
声はいい。
しかし、その声で嫌味ばかり言われている身としては、反射的に虫唾が走る。
何が「ここで出会うとは思いませんでした」だ。その言葉をくしゃくしゃに丸めてパイに詰めて、熱々のそれをお前の顔面に叩き付けてやりたい。
なぜ、第一王子が、騎士団長と、医師長を連れて街の酒場に来るのだ。
コンラート、フェリクス、ルイと、三人の【攻略対象】が勢揃いだ。
――そういう【イベント】はあったか? 否。記憶にない。
私は気を取り直すと、笑顔を浮かべ直した。
「出てけ」
「客ですよ」
「何しに来たこのボンボンめ」
コンラートが眉を寄せる。
「どうしたのですか。仮にも――」
そこで言葉を切る。
私が今ここでこうしている事情は知らないだろう。
しかし、身分を伏せていることぐらい、いくらこの頭と顔と声はいいが、天に二物も三物を与えられた代償か、アホなところがある馬鹿野郎も察したはずだ。
「妹目当て? つきまといは犯罪よ?」
コンラートが衝撃を受けたのか、目を見開いて絶句する。
「つきまとっ……」
「誤解です」
「繁盛していて、雰囲気の良さそうな酒場だったからな」
それぞれの反応を見せる王子、医師長、騎士団長。
「そう……まあ、どうぞ。そういうことなら、入りなさい」
最後のフェリクスの一言で気を良くしたので、入れてやることにする。
「席について、何かご希望は?」
「そうだな、カウンターよりテーブルがいい。なるべく目立たない席に」
「かしこまりました。ではどうぞこちらのお席へ」
さすがにフェリクスは、こういう雰囲気にも慣れているか。
……あの薄暗い天幕での一悶着など、なかったように振る舞うではないか。
その、自分より四つ年上の彼に、大人な対応を見せつけられたような気がして心がささくれる。
コンラートが、感心したように頷いた。
「そんな口調もできたんですね」
「出てけ」
私は行き場のない怒りのぶつけ先を見つけ、これ幸いと笑顔になる。
そして、握り拳に親指だけを突き出した手で、店の入り口を指した。
「だから、私は客ですよ」
「店には迷惑な客を叩き出す権利がある。王国法も暗記していないぼっちゃんめ」
なお、私も暗記なんてしていない。
法学は修めているが。
……法学の家庭教師は、王国法、及び大陸条約のグレーゾーンを教えてくれたが、先生の趣味だったのか、ヴァンデルヴァーツ向けの授業だったのかは謎だ。
「ダメですよ、お姉様。せっかく来てくださったんですから」
そこに、後ろで様子を窺っていた妹が割って入る。
そのまま私の隣に並んだ。
「レティシア……」
「レティシア嬢……」
私とコンラートは、揃って彼女の愛らしさに毒気を抜かれ、ひとまず心の剣を下ろし、妹の言葉を待った。
レティシアは、にこっと笑顔になる。
「コンラート様は、あくまでお客様としていらしたのですから。お店にお金を落としてもらうチャンスですよ」
たくましい。
「あ、はい……」
完全に客……それも金づるとして見られたコンラートが、分かりやすく意気消沈する。
どうせ、ちょっと特別扱いとかしてもらいたかったのだろう。
こいつの考えそうなことはお見通しだ。
……私ならそう考える。
コンラートの肩にがしりと手を置いて、顔を寄せると、小声でささやいた。
「大人しくしていなさい。そうしていれば、客として扱ってやります」
「へえ。――この状況でそんな口を利いてよいのですか? 誰も領主が酒場の店員をやっているとは思わないでしょうね……?」
優位に立ったと感じたのか、小声ながら調子に乗るコンラート。
思ったより可愛いところがあるやつだ。
「コンラート。……これからずっと査察先で『あれコンラート様よね』『第一王子様がいらしているの?』と噂されたい……?」
「…………それはやめてくださいね。絶対」
「では、馬鹿な真似はしないことね」
自分が同じ立場なのを忘れる馬鹿さが、一周回って可愛いと言えなくもない。
私はごめんだが。
「フェリクス。ユースタシア中の牧場に回状を出して、出禁にされたいかしら」
ついでに、フェリクスにも釘を刺しておく。
「待て。馬に罪はないだろう」
「あなたが出禁になるだけです」
順番に黙らせ、最後に医師長を見た。
「ルイ……は……まあ、いいわ」
「なんで僕だけ何もないんですか? 脅されたいわけではないですけど、一人だけ何もないってのも不自然で気になります」
そう言われても、本当に何もないのだ。
弱みらしい弱みが何もない。
強いて言えば、"放浪の民"のキャラバンの一員としてこの国に来たばかりの頃は、置いていかれたと思ったのか荒れていた過去があるらしいことか。
が、十歳の頃の話では、むしろ微笑ましいエピソードだろう。
医師団に入ってからは落ち着いた――のか、落ち着いたから医師団に入ったのか、順番は定かではないが、それからは、患者に同僚、そして上役に至るまで信頼させてきた。
我が家ですら、医師団と事を構えようとは思わない。何の得もないからだ。
それに、ソニアを筆頭に我が家の関係者には元医師団も多い。
「そこの二人よりマシということですわ。誇りに思いなさい」
「ええー……」
「どれだけ上から目線だ」
「失礼すぎませんか?」
複雑そうなルイ、呆れ顔のフェリクス、冷たい目のコンラートを、全員まとめて平等に無視する。
「注文を決めたら呼びなさい」
赤髪の女性店主、カミラが、カウンターに戻った私を手招きした。
顔を寄せると、耳元にささやかれる。
「……アデル。あれ、お偉いさんじゃあないのかい……?」
歳は若いが、全員、死ぬほどお偉いさんだ。
私は微笑んだ。
「立場、聞きますか?」
「やめとくよ……」
とても賢明だと思う。